<未来に伝える沖縄戦>艦砲の雨、母と妹2人犠牲 新垣美智子さん


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 南城市大里字稲嶺区に生まれ育った新垣美智子さん(90)は、沖縄戦で日本軍が南部へ撤退するのと同時期に母親と妹、弟たちを連れ、南へと激戦地を逃げました。艦砲射撃が雨のように降り注いだといいます。南部を逃げ惑う中で母と妹2人が亡くなります。新垣さんの話を大里中学校2年の山城黎奈さん(14)と新垣美姫さん(14)が聞きました。

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本島南部を逃げる途中で母親と妹2人を亡くした新垣美智子さん。「戦争は本当に哀れだ」と語る=南城市大里字稲嶺区

 〈新垣さんは、1928年、旧大里村(現南城市)稲嶺に生まれます〉

 父の稲牛さんは区の産業組合の書記をしており、そろばんが得意でした。母親のトヨさんは近くの船越から嫁いできました。
 お父さんは厳しく、お母さんは優しい人でした。私は5人きょうだいの長女で、普段から妹や弟たちの面倒をよく見ていました。

 当時は小学校を卒業して家の手伝いで農業をしていました。ご飯は芋ばっかりでした。

 〈1944年、日本軍は沖縄戦に備え、稲嶺に駐屯を始めます。方言を使うと日本兵に怒られました。遊び場だった公民館で自由に遊べなくなります。平穏な暮らしにも戦争が忍び寄ってきます〉

 日本軍は稲嶺の公民館や大きい瓦屋根の家に駐屯していました。公民館にも兵隊が寝泊まりし、公民館にあった売店はなくなりました。

 産業組合の書記だったお父さんは売店で品物を売る係をしていましたが、公民館に日本兵が来てから追い出されました。その後、防衛隊として海軍の小禄部隊に召集されました。

 公民館の前では自由に遊ぶこともできなくなりました。「兵隊が使うから遊ばないで」と言われて。方言を使うと(兵隊は)怒っていました。「なんで標準語を使わないで、私らが知らん言葉使うのか」と。やまとの兵隊は厳しかったよ。

 集落の若者たちは、日本軍に駆り出されて防空壕掘りに行きました。私も兵隊が防空壕を掘って出た土をもっこを使って担いで山まで捨てに行ったりしました。壕掘りの合間には竹やり訓練がありました。先生が「突けー」と言ったら「いえー」と気合を入れて竹やりを突きました。

 〈1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し、日本軍と激しい戦闘を繰り広げます。5月下旬、日本軍司令部のあった首里に米軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決めます。新垣さん親子は戦禍を逃れるため、南部へと逃げました。その中で母親や妹2人が次々に亡くなります〉

 私のお母さんは玉城村(現南城市)船越の人でした。船越には祖母がいて、最初は船越の自然壕に避難していました。しかし、「アメリカがだんだん近寄ってきているから逃げよう」ということになり、母親ときょうだい5人は島尻へ逃げました。逃げる時も日本兵に食糧を取り上げられてしまいました。日本兵はとても意地悪でした。

 船越の壕から出て、玉城村前川に行き、具志頭村(現八重瀬町)へ。それから真栄平に行き、摩文仁村(現糸満市)の摩文仁に行きました。艦砲は雨が降るみたいだったよ。

※続きは9月12日付紙面をご覧ください。