<未来に伝える沖縄戦>10・10空襲、北部に避難 宇根良信さん


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 那覇市前島で生まれ育った宇根良信さん(83)=那覇市=は9歳の時に「10・10空襲」を経験し、避難した北部地域で飢えに苦しみました。大切な兄と姉を戦争で亡くし、母が深く悲しむ姿を見て過ごしました。空襲前、日本兵を慕っていましたが、戦争が進むにつれて「日本兵は沖縄を守ってくれない」と気付いたそうです。宇根さんの話を松城中学校3年の浜川舞音さん、知念穂乃果さん、竹田幹生さんが聞きました。

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沖縄戦の体験について語る宇根良信さん=17日、那覇市首里

 《1944年頃、家の裏にあった鉄工所が日本兵の兵舎に変わりました。兵隊たちと家族は交流していました》

 私は那覇市前島で暮らし、泊国民学校に通っていました。家の裏に鉄工所がありましたが、1944年に日本兵が沖縄に来ると、鉄工所の主人は別の場所に追いやられ、強制的に兵舎になったのです。「日本も沖縄も守ってくれる」と幼心に思っていた私は「兵隊さん、兵隊さん」と呼び、慕っていました。

 兵隊さんたちは午前9時から午後5時までは規則があるようで、その後は自由に過ごしていました。お菓子やお酒、ジュースのような物を持って民家に遊びに来ていました。父はお酒を飲むし、次女の姉さんが美人だったので、20~26歳くらいの兵隊さん4、5人がよく来ていました。

 《44年10月10日、空襲に遭います》

 午前8時半頃に飛行機の音がしました。「すごい。日本の飛行機だ」とみんな空を眺めていました。大人も子どもも日本の飛行機の練習だと思っていました。そのうち空襲警報の知らせがあり、父、母、8人のきょうだいは慌てて牧志の防空壕に入りました。

 家から防空壕までは200メートルくらいでした。何百もの戦闘機や爆撃の音がバンバンと聞こえていました。那覇は一日にして焼け野原になりました。

 私たちは9人きょうだいですが、四女の姉・初枝は宮崎に疎開していました。8月に鹿児島県の悪石島近くで疎開船「対馬丸」が米軍に攻撃されましたが、姉は後日出港した船に乗っていたため助かりました。

※続きは5月9日付紙面をご覧ください。