<未来に伝える沖縄戦>「10・10空襲」、大人も動揺 瀬名波起廣さん


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 那覇市久茂地で生まれ、泊で育った瀬名波起廣さん(83)は9歳の時に「10・10空襲」を体験しました。那覇から宜野湾の嘉数に避難し、1945年4月1日の米軍上陸の時には今帰仁村越地に逃れ、飢えや死の恐怖に耐えながら過酷な避難生活を続けました。瀬名波さんの話を浦添市立仲西中の新里海織さんと石嶺凜さんが聞きました。

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「目が覚めると隣にいた人が亡くなっていた」と語る仲井間小夜子さん=沖縄市

 《1944年7月、政府は南西諸島のお年寄りや女性、子どもたちの県外疎開を進めることを決定しました。戦争が近づき、学童疎開の機運が高まっていました》

 母のオトは「もしものことがあったら」と子ども4人を半分に分け、孝子姉さんと私を疎開させることにしました。私たちは見たことのない景色が見れると大変喜びました。

 出発の時期が近づいてくると、非常食のスルメや新品の靴などが支給されました。その靴を軒下に置いてあるのを母に見つかって「物をすそーん(粗末)して」と母にみんちゃんばを3~4発されたこともありました。

 出発前夜、母は豪華な送別の夕食を用意してくれました。食べるのに夢中になっている間、母はいなくなってました。2~3時間たったころ、帰ってきた母が「今、先生たちの家に行ってきた」と話しました。幼い2人だけを疎開させるのは心配だ。「死ぬなら皆一緒でいい」と疎開を取りやめにしてきたそうです。その時は非常にがっかりしました。その後、学童らを乗せた「対馬丸」が8月22日、米軍の潜水艦の魚雷によって沈没し、多くの犠牲者が出ました。そのことは何十年もたってから知ったことでした。

 私たちきょうだいが乗る予定の船はどれだったのでしょうか。乗船予定名簿が残っていないため不明ですが、もし対馬丸だったらと思うとどきっとします。母には心から感謝しています。

 《10月10日の「10・10空襲」の日、那覇市泊で母ときょうだい3人、いとこのお兄さんと住んでいた瀬名波さんは、朝に米軍の攻撃に気付きました》

 朝7時半ごろ、世の中がひっくり返るような衝撃を受けました。大きな音と共に、外にいる人々の声が騒がしくなりました。外に出て空を見上げると、ギラギラと光るたくさんの飛行機が見えました。

 その飛行機は急降下したかと思ったら、那覇港や飛行場近辺から爆発音やごう音が聞こえました。「敵機襲来、敵機襲来」と何度も叫ぶ声が聞こえました。防空ずきんをかぶり、地面に伏せて両手で両目と耳を覆いました。

 みんな口々に「そーむんどー(本当だよ)」と言ってパニックになっていました。母の号令で家の後ろの防空壕に向かいました。

 防空壕に避難した後、息もつけないような状態が続きましたが、1時間ぐらいで静かになってきました。震えながら恐る恐る外へ出てみると、那覇港、通堂、飛行場付近の空は広い範囲に黒煙が上がっていました。悲鳴が聞こえ、大人たちは動揺して「ちゃーすがよー」と声を上げていました。

※続きは6月12日付紙面をご覧ください。