<未来に伝える沖縄戦>大事な祖母と知人失う 宮里信光さん(80)


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 沖縄市古謝で生まれ育った宮里信光さん(80)=沖縄市=は7歳で沖縄戦を経験しました。家族や知人と沖縄市内を逃げ回る中、大事に育ててくれた祖母を亡くしました。宮里さんの話を沖縄市立宮里中3年の知名宏樹さん(15)と仲村心優さん(15)が聞きました。

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旧美里村での戦争体験について語る宮里信光さん=6月24日、沖縄市古謝

 《戦前の宮里さんは美里村(現沖縄市)古謝で暮らし、祖母に育てられました》

 私が生まれてすぐに母は家を出て行ってしまい、母方の祖母と2人で暮らしていました。貧しいながらも祖母の愛情を受け、大事に育てられました。祖母は性格が明るく、近所の人からも良くしてもらい、とても幸せな日々でした。

 《1944年10月、那覇に空襲が来たとの情報が広がりました。10・10空襲です。古謝集落にも空襲が来るようになります》

 44年10月10日に那覇が大空襲に遭ったという話を大人たちがしていました。古謝集落にも米軍機が襲来するようになりました。子どもながら「アメリカの飛行機は来ないでほしい」と祈っていましたが、何十機もの米軍機が爆弾や焼夷弾を落としていきました。空襲警報のサイレンが鳴るたびに防空頭巾をかぶり、集落から50メートルほど離れたところにある防空壕に逃げました。家族や近所の人も一緒に入りました。

 当時、周りの子どもたちが歌っていた歌がありました。「空襲警報聞こえてきたら 大人の言うこと よく聞いて 入ってみましょう防空壕」という歌詞です。どこで習ったか覚えていませんが私も自然と歌えました。

 防空壕は小高い場所にあり、古謝集落が見渡せました。入り口は2カ所で中は20メートルほどあり広かったです。空襲のとき、ものすごい地響きで地面が揺れたかと思うと、かやぶきの屋根が焼けて飛び散る音と共に、爆撃を受けた民家から大きな火柱や煙が上がっているのが見えました。爆弾はうなり声のような音を立て、黒い煙をまき散らしながら落ちてきます。防空壕の中で村の人たちは震えていました。

※続きは7月10日付紙面をご覧ください。