沖縄戦当時、県立一中(現・首里高校)に通う15歳だった那覇市の島袋文雄さん(81)は、米軍による爆撃で母親と祖父を亡くしました。島袋さんの戦争体験を上山中1年の金城和佳乃さん(12)と玉城歩未さん(13)が聞きました。
私は父親を早くに亡くし、那覇市前島の母親の実家で、母と祖父、母のきょうだいと暮らしていた。一中に入学したのは1944年4月。当時から米軍が攻めてくると言われていて、勉強できたのは一学期のわずかだけで、すぐに勤労学徒として戦争に動員されてしまった。
《同年10月10日、那覇港で軍需品の運搬作業に従事していた島袋さんは「10・10空襲」と言われる米軍の大空襲に見舞われました》
朝早くに作業していると、上空を戦闘機が飛んでいたよ。最初は日本軍の飛行機かなと思ったけど、刀を持った将校が「敵機来襲」と叫んで来て、避難命令が出された。それで、友達と2人で近くの防空壕に避難した。「ボーン、ボーン」と爆発音がしたと同時に壕の中は大きく揺れ、私の足はガタガタと震えが止まらなくて、生きた心地がしなかったよ。
爆発音が一時止まったのを見計らって友達と壕を出ると、周りは戦闘機の爆撃で燃え上がっていた。私たちは脇目もふらずに壺屋のあたりまで逃げて、そこで友達と別れて前島の家に走って逃げたわけよ。昼過ぎごろに家に着くと家族は防空壕に入っていて全員無事だったけど、すぐに空襲が再開した。
間もなく「プスプス」と何かが燃える音が聞こえ、見ると瓦ぶきの家が燃えていた。バケツにくんだ水をかけて火を消そうとするおじに「消せるわけない」と言って止めたことを今でも覚えているよ。今の上山中の周辺ではたくさんの方が亡くなったと聞いた。私ももしかしたら死んでいたかもしれないね。
※続きは11月12日(土)付紙面をご覧ください。