糸満まで家族と歩き続けた。同じ沖縄でも与那原や糸満などはあまり行ったことがなかったから、自分がいる場所がどこなのかもあまり分からなかったわけよ。そこでは喜屋武方面に逃げる人もいれば、反対方向に逃げる人もいて、みなどこに行っていいか分からずにさまよっていたさ。
6月7日ごろ。隠れていた糸満真栄平の民家の上空に米軍のグラマン機が現れた。爆弾が投下されてきたんで、家族はばらばらになって逃げた。私は祖父と手をつないで走っていたが、自分たちを目がけて爆弾が飛んできた。近くに落ちた爆弾の音に驚いた祖父は手を離し、私とは別々に逃げてしまったんだよ。それっきり。祖父の遺体、遺骨は今も見つかってないんだ。
爆撃が止まり急いで民家に戻ると、そこには横たわった母親の姿があった。荷物を取りに戻ったのかもしれないね。胸がえぐり取られて、動かなかった。何とも言えず、ただただ泣き続けた。そして、1週間もたつともう涙は枯れてしまった。母親の遺骨を拾いに行ったのは沖縄戦が終わってからだね。
※続きは11月13日(日)付紙面をご覧ください。