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沖縄戦当時、恩納村の當眞嗣長さん(81)は14歳で、恩納国民学校高等科2年でした。1945年3月23日、恩納国民学校の卒業式の日に恩納村で初めて米軍戦闘機の爆撃があって以降、石川の収容所に入るまで約3カ月、家族とともに恩納岳周辺に避難し、激しい戦闘の中を生き延びました。當眞さんの戦争体験を、恩納村立安富祖中学校の宮城祐奈さん(15)と長嶺紀利君(15)が聞きました。
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44年8月ごろから学校は日本軍の宿舎になって、奉仕作業をすることが多くなった。日本軍が陣地壕に使うため、地域の青年団を徴用して恩納岳から松の木を切り出し、運んでいた。今の恩納村役場やコミュニティーセンター辺りはだいぶ松が積んであり、私たちはその松の皮を鎌やなたで剥ぎ取った。だからほとんど授業を受けてない。陣地壕も掘ったりした。
※続きは2月25、26日付紙面をご覧ください。