<未来に伝える沖縄戦>手りゅう弾、姉の隣に 宮城恒彦さん(78)下


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 《1945年3月25日夜、座間味島に対する米軍の艦砲射撃が激しくなり、当時11歳の宮城恒彦さん(78)は母親と弟、姉3人と一緒に日本軍が掘っていた壕に逃げ込みました》

 26日朝、あるおばさんが、役場職員が隠れる壕で60人ぐらい死んでいるのを見たと報告に来たのをきっかけに「集団自決」(強制集団死)が始まった。米兵が上陸したら虐殺されるよというものが頭にあるもんだから。誰がそう思わせたか。情報が少ないからね。悲しい時代に生まれたね。

 《壕内には二十数人がいました。宮城さんが通っていた国民学校の校長先生の夫婦や担任の先生もいました》

 女の先生が手りゅう弾を一つ持っていた。その先生は頭が真っ白になったんだろうね。どこに投げていいか分からなかったんだはず。手りゅう弾は僕の姉と担任の先生の間に落ちた。姉はお尻の肉をとられて、先生は横っ腹とられて。瀕死だった。

※続きは3月25日付紙面をご覧ください。