<未来に伝える沖縄戦>防衛隊の父、消息不明 上原美智子さん(78)上


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上原美智子さん(右)の戦争体験に耳を傾ける那覇工業高の嘉手苅志保さん(左)と玉城命さん=4月21日、那覇市の琉球新報社

 那覇市に住む上原美智子さん(78)は、沖縄戦当時、摩文仁村(現糸満市)の摩文仁国民学校3年生でした。米軍が上陸する直前、家族と一緒に生まれ故郷の大度から恩納村名嘉真の山中へ避難しました。沖縄戦前夜の緊迫した雰囲気を体験し、米軍上陸の後、飛び交う銃弾から逃げるさなか、家族を失いました。

上原さんの戦争体験を那覇工業高校3年の玉城命さん(17)と嘉手苅志保さん(17)が聞きました。
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 当時は9歳だった。学校では「国のために命をささげる」という軍国主義教育が行われていた。教科書を開くと、敵を殺すことが目標に掲げられ、学校でも軍歌がはやっていた。軍人になることはとても名誉なことで、軍人が通ったら人々は敬礼していた。
 敵の空襲に備え、学校では頻繁に避難訓練があった。サイレンが鳴ると、校長先生が「空襲だ。担任の指示に従ってください」と声を掛けた。指で耳を防いで、目を覆って避難した。防空壕は学級ごとにあったし、各地域にも一つや二つはあった。
 男性は兵隊として召集された。女性も訓練をした。姉がなぎなた訓練をしているのを見た覚えがある。自分たちで作った1メートルくらいの竹やりを「えい。やー」「突け、突け」と突いていた。パラシュートで降りてくる米兵を殺すためだったが、今思うと本当に考えられない訓練だった。

※続きは5月10日付紙面をご覧ください
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