<未来に伝える沖縄戦>避難生活で末弟亡くす 上原美智子さん(78)下


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家族で北部へ避難した戦争体験を語る上原美智子さん=4月21日、那覇市天久の琉球新報社

 《北部への避難を命じられた上原美智子さん(78)=那覇市=の家族は1945年の3月24日から、4日かけて摩文仁村(現糸満市)の疎開先に指定された恩納村名嘉真へ避難しました》

 敵機が襲来した3月24日夜、家族で恩納村名嘉真へ避難することになった。私はランドセルを背負い、貴重品などを入れた非常袋を提げていた。昼は戦争をやっているから、夜薄暗くなってから歩きだした。周囲は避難民であふれていた。一晩かけてたどり着いた読谷は、艦砲射撃で焼け野原になっていたので、燃えている場所を避けて逃げた。

 祖父は「どうせ死ぬなら古里で死にたい」と避難しなかった。今もどうやって亡くなったのか、はっきり分からない。

 《石川を通って27日、恩納村名嘉真に到着し、山中に建てられたかやぶき小屋で避難生活が始まりました。米軍の襲来におびえながらの生活でした》

 かやぶき小屋には、炊事場があり、石のかまどに釜が置かれていた。炊事は子どもたちの仕事だった。若いお母さんたちは米兵に見つかったら、いたずらされるからと小屋の奥にある壕に隠れていた。女たちは鍋底のすすを顔や服に塗り付けていた。顔も洗わず、化粧もせず、わざと老人に見えるようにしていた。
 4月下旬ごろ、生後8カ月の末の弟が栄養失調で亡くなった。姉が抱いている間に、いつの間にか眠るように死んでいた。母は精神的に参っていたので、姉は末の弟が死んだことを伝えなかった。姉たちが山中に埋めた。

※続きは5月11日付紙面をご覧ください
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