<未来に伝える沖縄戦>米軍上陸後、壕を転々 根路銘国文さん(77)上


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肥後明花さん(右)、小浜龍摩君(中央)に真部山での戦いを説明する根路銘国文さん(左)=7日、本部町の真部山

 沖縄本島で地上戦が始まった1945年4月、本部町の根路銘国文さん(77)は8歳でした。八重岳の北側にある真部山に家族と隠れ、四つの壕を転々としながら命の危険にさらされました。本部町立本部中学校2年の肥後明花さん(13)と小浜龍摩君(13)が、根路銘さんに話を聞きました。

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 当時は本部国民学校に通っていた。生徒は山に逃げなさいという指示を受け、2年生の2学期からは学校に行っていない。44年冬に家族7人で真部山の避難小屋に隠れ、45年3月ごろに壕に移動した。米軍に捕まったら、鼻を切られて耳に針金を通され、海に捨てられると言われていた。こんなふうにやられるより、日本軍と一緒に早く死んだ方がいいと思って、日本軍がいた真部山に向かった。

 《日本軍は山の裾から中腹に壕を掘り、隠れていました。根路銘さんたちは米艦船の艦砲射撃を避けるため、海と反対側の壕に入っていました。米軍は45年4月1日に読谷から上陸し、同月14日から八重岳周辺の攻防が激しくなりました》

 4人の日本兵が、けがをした兵隊を担架に乗せて、壕に入ってきた。入り口にけが人を置いて、4人は私たちの後ろに回った。けがをした兵隊は「ここに置かないで。一緒に連れて行ってくれー。頼むー、頼むー」と、しょっちゅうわめくんだよ。耳をふさいでも聞こえた。真っ暗な防空壕の中でこの声しか響かなかった。

※続きは5月24日付紙面をご覧ください

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