<未来に伝える沖縄戦>心に「平和のとりで」を 根路銘国文さん(77)下


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砲撃される八重岳や真部山の写真を手に当時の状況を説明する根路銘国文さん=7日、本部町の真部山

 《本部町の根路銘国文さん(77)の家族は、同町にある真部山で四つの壕を転々としました。四つ目の壕はたくさんの住民が隠れていました。その時、赤ちゃんだった一番下の弟が空腹のために泣き出してしまいます》

 飯を食べてないから、母のおっぱいも出なかった。母は泣き声を止めようと一生懸命だったが、それでも泣きやまない。壕にいたみんなから「敵に気付かれたら全滅する。子どもを殺しなさい。殺さなければ私がやるよ。物を口に押し込んで鼻を押さえたら死ぬから」と責められた。

母は弟を抱いて「子どもと一緒に死ぬさー」と、砲弾の雨の中を壕から出て行った。「もう赤ちゃんもお母さんも死ぬんだな」と思ったが、20分ぐらいすると弟が泣きやんだので戻ってきた。
 その晩、米軍が攻めてくるというので、逃げることになった。夜歩くと、地面にあった石が(爆発で粉々になって)真っ白い雪のようになっていた。移動しているさなかに、「ぼんっ、ひゅー」と弾が上がって真昼のように明るくなった。照明弾だった。その時に動く者はすぐやられてしまう。5分ぐらい身を伏せて顔を上げたら、きょうだい3人が残されて、ほかの家族は逃げていなくなっていた。「いざとなったら親も子どももない」と思った。
 きょうだいで逃げていたら、たくさんの住民が歩いているのを見た。その中に、わあわあ泣いてる人がいた。両親は僕らが死んだと言って泣きわめいていた。生きていると分かったら余計に泣いてね。「生きてたかー」と抱き合って、それから家族一緒に逃げた。

※続きは5月25日付紙面をご覧ください

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