<未来に伝える沖縄戦>負傷兵の看護で動員 大見祥子さん(88)上


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大見祥子さん(左)の体験を基に描かれた絵の前で、話を聞く糸満中3年の上原洋輝さん(同2人目)と知念仙華さん=5月18日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館

 ひめゆり学徒隊として、1945年3月に沖縄師範学校女子部から南風原の沖縄陸軍病院に動員された那覇市の大見祥子さん(88)は当時19歳、本科2年の最上級生でした。壕で重傷の兵隊を看護した後、大けがをしながら南部に逃げ、喜屋武の海岸で保護されました。糸満市立糸満中学校3年の上原洋輝君(14)と知念仙華さん(14)が、大見さんに話を聞きました。

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 3月23日に米軍の攻撃が始まると、生徒たちは校長先生の住宅前に集まり、陸軍病院に向かった。第一外科の壕に着くと、治療班や作業班などに分かれ、私は炊事班になった。29日の夜、馬の骨が配られ、「どう料理するの」と話していると、「卒業式をするから早くおいで」と呼ばれ、地上の三角兵舎で式が始まった。艦砲射撃が頭の上を飛ぶたびに、ろうそくの火が揺れた。野田貞雄校長先生は「こんな卒業式は世界でもまれだ」とおっしゃった。

 《4月1日、米軍は沖縄本島の西海岸に上陸しました。本島は北部と南部に分断され、戦闘が激化しました。中旬以降、負傷兵の搬送が急増し、5月4日から5日にかけ、日本軍が総攻撃を仕掛けましたが、失敗に終わりました》

 5月の初め、「(400メートルほど離れた)兵器廠の壕に行きなさい」と言われた。向かう途中、道路のへりの大きな弾痕に、兵隊が軍服を着たまま死んでいた。初めて死体を見てびっくりして「大変なところに行くんだ」と緊張した。
 兵器廠の壕に着いたら、そこはもう、地獄だった。

※続きは6月14日付紙面をご覧ください。