<未来に伝える沖縄戦>砲弾の破片浴び負傷 大見祥子さん(88)下


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南部への撤退について語る大見祥子さん=5月18日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館

 《沖縄戦当時、沖縄陸軍病院の兵器廠の壕で重傷患者の看護をしていた大見祥子さん(88)=那覇市。治療班が2週間近く、壕に来なくなりました。大見さんは、兵長と一緒に、本部壕に連絡に行きました》

 本部に着くと、婦長さんが「ご苦労さま。ここで休んでいって」と、ベッドに毛布を敷いてくれた。私は涙をポロポロ落として、おにぎりも二つ、頂いた。その後、39度の熱が出て、それっきり、兵器廠には戻れなかった。
 1945年5月25日の朝、少し離れた壕で(同期生の)狩俣キヨさんと話していた。そこまでの記憶はあるが、気が付くと「誰か助けて」と小さな声がした。自分の背中が(血で)ぬるぬるとしていた。(砲弾の破片で)けがをして、狩俣さんも大けがをしていた。蚊の鳴くような声が聞こえた。
 その日、「撤退するから早く本部壕に集まりなさい」と急に言われた。出ようとしたが、先に出た友達を狙って、敵兵が銃撃している。ガタガタ震えた。左足を土のうに上げた瞬間、バン、バーンって弾が私の太ももを貫通した。
 応急処置をして、本部の壕に後で行ったが、狩俣さんは連れて行けなかった。

※続きは6月15日付紙面をご覧ください。