<未来に伝える沖縄戦>叔父、自決の巻き添えに 上運天賢盛さん(82)上


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上運天賢盛さん(左)のサイパン島での戦争体験に聞き入る首里東高校の島海斗君(中央)と杉崎芽心さん=20日、那覇市首里鳥堀町

 沖縄本島から南東約2200キロにある北マリアナ諸島の中の一つの島、サイパン島。上運天賢盛さん(82)=那覇市首里鳥堀町=はその島で生まれ、地上戦を経験しました。県立首里東高校3年の島海斗君(18)と1年の杉崎芽心さん(15)が、上運天さんに話を聞きました。

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 第1次世界大戦が終わって、勝った連合国側にいた日本は、負けたドイツが領土にしていた南洋群島を日本の領土にしたわけなんだ。国策によって、そこで砂糖を作ろうということになって、沖縄の人も大勢行った。私の父もその一人で、1920年にサイパンに行った。私は31年にマタンシャという場所で生まれた。
 44年2月に空襲が始まって、4月にも空襲があった。そのころは米軍が空襲に来ると、ゼロ戦が応戦していたんだ。でも、5月を過ぎると日本の飛行機はもう飛ばなくなった。結局やられたんでしょうね。

 《44年6月11日から米軍機はサイパン島に集中的な爆撃を始め、日本軍の戦闘機が置いてあったアスリート飛行場などを破壊しました。13日以降は海上からの艦砲射撃も加わり、15日に島に上陸しました》

 17日ごろから街中の人たちがみんな避難してきてそれで私たちも慌てだした。タラホホという場所にマンガンを掘る坑があって、私たちは母の妹の家族やいとこの家族合わせて20人ぐらいで入っていた。
 入って2日目、米軍に見つかった。機銃掃射された後に、爆弾を投げ込まれた。積んであった土のうが全部、坑の中に吹き飛んできて、妹も母も倒れてしまった。爆風と火薬の臭いで酸欠状態に陥って気絶したんでしょうね。

※続きは6月28日付紙面をご覧ください。