<未来に伝える沖縄戦>「死ぬなら家族一緒に」 高良初枝さん(85)上


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高良初枝さん(右)の戦争体験を聞く那覇西高校2年の川平裕佳さん(中央)と友利麻乃香さん=1日、那覇市小禄

 1944年10月10日、沖縄本島に襲来した米軍機が那覇を焼け野原にした「10・10空襲」の後、高良初枝さん(85)は実家がある小禄村(現那覇市)安次嶺を後にして宜野湾村や南部一帯を家族で逃げ回りました。逃げるさなかに祖母や叔母を亡くし、2歳のいとこを自らの手であやめそうになったこともありました。高良さんの沖縄戦体験を、那覇西高校2年の川平裕佳さん(16)と友利麻乃香さん(16)が取材しました。

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 私は小禄第1国民学校高等科1年までしか出ていない。戦争中は学校へ行かず、壕を掘りに行った。兵隊と一緒に、毎日毎日お芋一つだけ持って行った。お給料もなかった。天皇陛下のため、国のためと言っていた。
 15、16歳でしたが、遊びたいという気持ちはなかった。仲良くしていた友達は避難するためにやんばるや鹿児島へ行った。だから友達はみんなばらばらに。家族のことだけ考えていた。

 《フィリピンのレイテ島上陸作戦をもくろむ米軍は、作戦遂行に際して日本や台湾からの攻撃にさらされないようにするため、44年10月10日、南西諸島で大規模な空爆を仕掛けました。那覇の市街地は焼失し、死傷者は軍民合わせて約1500人に上りました》

 私の家には壕を掘る日本兵が10人くらい寝泊まりしていた。だけど、その日は朝から急に誰もいなくなった。朝の7時ごろだったと思う。私が壕を掘りに行こうとしたら、グラマン(戦闘機)が飛んでいた。(機銃から)薬きょうがぽんぽんぽんぽん落ちてきた。防空壕に行く時間もなかったので、敷地内にあった豚小屋に家族6人で逃げ込むことにした。弾が来るのかと、その時は怖いだけだった。それしか覚えていない。
 夕方になると飛行機の襲来がストップした。そのころにはもう、那覇は焼け野原になり1軒も残っていなかった。私たち家族は急いで豚小屋から防空壕に逃げた。隣近所も一緒だったので、壕の中には12、13人ぐらいいたと思う。壕の幅は人が1人通れるくらいで中は何畳間もなく、細長かった。狭くて、昼も夜も座ったままでいるしかなかった。壕の中にいたのは3日か、6日くらい。食べるものもないからトイレに行くこともあまりなかった。

※続きは7月12日付紙面をご覧ください。