<未来に伝える沖縄戦>泣くいとこ 殺しかける 高良初枝さん(85)下


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戦中、実家を後にして宜野湾村や南部一帯を家族で逃げ回った体験を語る高良初枝さん=1日、那覇市小禄

 《1944年の10・10空襲後、高良初枝さんは小禄村(現那覇市)安次嶺の実家から宜野湾村(現宜野湾市)我如古へ避難しました。避難生活もつかの間、米軍は45年4月、沖縄本島への上陸を開始しました。避難先の宜野湾は戦火に染まりました》

 逃げたと思ったところが、逆に危なくなってしまった。とにかく南部に逃げようとなった。

目的地も分からない。どんな道を通ったのかも思い出せない。途中、丈夫な壕があったが、日本兵に出されてしまった。食べ物も取られた。「(食べ物を)出さないと撃つ」と言われた。壕を出された人の中には、飛んできた弾にやられた人もいた。
 東風平から真壁村(現糸満市)の新垣や真栄平の辺りに着くと、もう全部死体だった。片足がない人もいるし、手がない人、頭がない人もいた。「水飲ませてくれー、水飲ませてくれー」と大声を出していたが、水もないもんだから、みんなそのまま通過した。
 そこでは、かやぶきの家にいた。家の中で叔母さんが2歳のいとこにおっぱいを飲ませていたら、機銃で撃たれて、頭から油(脳みそ)を出して死んだ。父は自分の妹が死んだのに、何も言わなかった。機銃がやむと、父は屋敷の前に簡単な穴を掘って遺体を埋めた。同じく頭を撃たれた祖母も2日後に亡くなった。だけど、悲しいという気持ちはない。兄弟が亡くなっても、親が亡くなっても…。みんなそうだった。
 そこの家には20人くらいいた。もう食べ物も水もないから、2歳のいとこがしょっちゅう泣いて。隣の人に、泣く声が聞こえたら弾が来ると言われたの。だから、私はタオルで口をふさいで。死なす言うて。2歳の子どもを。子どもを死なす言うて。もう戦争のことは話したくないね。二度とあんな苦しさは来てほしくない。

※続きは7月13日付紙面をご覧ください。