<未来に伝える沖縄戦>激しい空襲、ガマ揺らす 玉城秀昭さん(83)上


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当時隠れていた自然洞窟に続く井戸の前で玉城秀昭さん(右)の話を聞く比嘉信光君(中央)と伊波雄真君=21日、読谷村渡慶次

 読谷村渡慶次の玉城秀昭さん(83)は、渡慶次国民学校の高等科2年の時に沖縄戦を体験しました。渡慶次の自然洞窟(ガマ)から、読谷沖に並ぶ無数の米軍の艦船を目撃し、国頭村へ避難しました。玉城さんの沖縄戦体験を、読谷高校3年の伊波雄真君(17)と比嘉信光君(18)が取材しました。

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 私は父の出稼ぎ先だったフィリピンで生まれたが、小学校に上がる前に沖縄に戻った。学校では天皇のために、国のために死になさいと教育を受けた。四大節(祝日)には子どもたちが講堂に集められ、白い手袋を着けた校長先生が奉安殿から天皇、皇后両陛下の御真影と教育勅語を取り出し、読み上げていたのを思い出す。
 「1年でも早く軍隊に入り出世した方がいい」と教えられた。私は軍隊に入って将校になることへの憧れが強く、戦争で死ぬとは考えなかった。高等科1年の時に先生の勧めで海軍兵に志願したが、身長と体重が足りなくて不合格になった。
 戦争が始まってからは物資も乏しくなり靴もなく、みんなはだしだった。冬は歩くたびに足が痛んだ。高等科2年になると、低学年は切り倒した木の皮をはぐ仕事をして、私たち高学年は米軍の攻撃に備えて戦車の落とし穴を掘った。米軍の上陸が近くなると、学校に兵隊が来て閉鎖になった。
 1944年の10・10空襲の日、私が住む所から那覇が見えた。空襲を受けた那覇の街からもうもうと黒い煙が上がっていた。それから毎日のように米軍機が飛んできた。
 45年の3月23日からものすごい空襲が始まった。私も含め区の人たちは地下のガマに隠れた。卒業式の予定だったが、空襲のため開かれなかったので、私は卒業証書をもらっていない。

※続きは7月26日付紙面をご覧ください。