<未来に伝える沖縄戦>飢えと死の恐怖抱え 玉城秀昭さん(83)下


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戦中、故郷の読谷村を離れ、国頭村桃原で飢えに苦しみながら避難生活を送った玉城秀昭さん=21日、読谷村渡慶次

 《米軍の上陸が近づいた1945年3月25日、玉城秀昭さんは読谷村渡慶次から国頭村桃原へ避難しました。山中での避難生活は飢えと死の恐怖との闘いでした》

 昼間は木陰に隠れ、夜、国頭に向かい歩いた。2日目の夜に桃原で先に避難していた家族と合流した。だが4月初めに「米軍が上陸する」という話が出ると、さらに山奥に逃げた。

 そこには県が用意した避難小屋があり、両親ときょうだい、叔父の9人で入った。周りには食べ物が何もなかった。夜になると数キロ離れた他人の畑に忍び込み、芋を取る日が続いた。
 畑近くには米軍の陣地があり、金網には空き缶がぶら下がっていた。触れるとカラカラと音がして照明弾が打ち上がり、機銃掃射の攻撃にさらされた。飢えに耐えかねて陣地に忍び込み、芋を取ろうとして命を落とす人もいた。
 そのうち芋もなくなり、桑や芋の葉、ヘゴやパパイアの芯、カタツムリ、カエル、ドングリなどを食べて飢えをしのいだ。その時の暮らしは本当に惨めだった。
 ある夜に、山から下りる途中に強い死臭を感じた。姿は見えなかったが「私も今に殺されてしまうのではないか」と、怖かった。
 《このころすでに、県内各地に収容所が設置されていました。住民たちは収容所で食べ物と寝る場所が与えられましたが、山中で避難生活を続けて飢えに苦しむ人も多くいました》

 いよいよ食料が尽きた7月23日、避難者たちで相談し山を下りた。米軍に殺されてしまうと反対する人もいたが、飢えには耐えられなかった。みんな骨と皮ばかりになっていた。

※続きは7月27日付紙面をご覧ください。