<未来に伝える沖縄戦>戦に震え、死は恐れず 照喜名 朝一さん(82)上


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
(右から)那覇国際高校の加藤萌さんと本郷宏美さんに、平和への思いを込めた「二揚げ仲風節」を披露する照喜名朝一さん=5日、那覇市東町の照喜名さん宅

 琉球古典音楽の人間国宝・照喜名朝一(てるきな・ちょういち)さん(82)=那覇市=は知念国民学校6年生の時、沖縄戦を体験しました。家族と一緒に米軍の攻撃から逃れるため、知念や佐敷などの避難壕を1945年3月ごろから6月中旬ごろまで転々としました。

那覇国際高校2年の加藤萌(かとう・もえ)さん(16)と1年の本郷宏美(ほんごう・ひろみ)さん(15)が取材しました。
    ◇    ◇
 私は、旧知念村知名の板馬で生まれた。父名厚は半農半漁で、村議会議員でもあった。国民学校で担任の先生は教育勅語を読んで聞かせた。登校時は、天皇の写真や教育勅語を収めている「奉安殿」に必ず敬礼した。米軍機の空襲を想定した防空訓練もあった。
 1944年の10・10空襲の日、私たちは防空壕の穴掘りの手伝いをしていた。父も一緒にいた。馬に乗った吉岡大尉という人が来ていた。上空を飛ぶ飛行機の音がいつもと違い、吉岡大尉は「今日は友軍の演習」と言った。しかし、双眼鏡で上空を見つめた後に「敵機来襲!」と叫んだ。私は首里が攻撃されていると思って見ていた。戦争が確かに来ているんだなと感じた。夜になって、攻撃されたのは首里ではなく、那覇との情報が入った。
 父は次男の妻に対し、私を連れてヤマトへ避難しなさいと疎開船に乗せる準備をしていた。しかし、疎開船の出港に合わせて早朝に乗るはずだった客馬車に乗り遅れ、疎開船に乗れなかった。乗っていたら、どうなったか分からない。

※続きは8月9日付紙面をご覧ください。