<未来に伝える沖縄戦>父、米兵テント襲撃制止 照喜名朝一さん(82)下


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避難壕を転々とした沖縄戦体験を証言する照喜名朝一さん=5日

 《照喜名朝一さんの父は1945年6月ごろ、当時の知念村久手堅の避難壕「ナワンダー」に隠していた手りゅう弾がなくなっていたことから、一緒にいた家族5人で自ら命を絶つことを諦めました。一家は地元の板馬に戻りました》

 私たち家族5人は、佐敷の伊原から久手堅へ向かう時、ナワンダーの近くで迫撃砲を撃たれたが、弾が爆発しなかった。あれが破裂していたら家族5人が亡くなっていたのかもしれない。生きているから話せる。そんな怖い思いもした。
 久手堅のナワンダーで父が一時は手りゅう弾で命を絶とうとしたものの、手りゅう弾がなくなっていたため、家族で山を下りて家のある板馬へ向かった。途中、機関砲の弾が飛んできた。身の安全を守るために一緒に固まらず、家族ばらばらに分かれた。
 私は兄と2人で行動し、いつもは20分くらいで通れる道を、攻撃を避けながら約8時間もかけて移動した。地元の板馬に着くと、親戚の避難壕「ヤキファー」の近くで両親や妹と合流し、再び家族5人で行動した。
 何とか板馬にたどり着いたが、腹ぺこだった。母マタが持ってきたイモを五つに割って家族で食べた。おいしくて、今でも忘れられない。命があったからこそで、とても幸せに感じた。

※続きは8月10日付紙面をご覧ください。