<未来に伝える沖縄戦>疎開船、魚雷受け撃沈 堀川澄子さん(81)〈1〉


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対馬丸撃沈について語る堀川澄子さん(左)の話を聞く金城陽平君(中央)と濱元大空さん=5日、那覇市若狭の対馬丸記念館

 疎開学童らを乗せた対馬丸は1944年8月、那覇港から長崎を目指して出航しました。22日、鹿児島県の悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号から魚雷攻撃を受けて沈没し、多くの人が犠牲になりました。堀川澄子さん(81)=浦添市前田=は乗船者の一人で当時、泊国民学校6年生でした。大里中学校2年の金城陽平君(14)、濱元大空さん(14)が話を聞きました。

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 44年、私は泊国民学校6年生で1学期までは学校に通っていた。そのころ、防空壕掘りや空襲警報が出される日が次第に多くなり、本土や台湾への疎開も進められていた。海上の航路が危険だと知りつつも疎開を決意する家庭が多くなっていた。
 夏休みに入ると教室は兵舎になり、運動場は軍事物資や荷物でいっぱいだった。学校から強い勧めがあり、近所の親しい友達のほとんどが疎開の手続きを済ませていた。一人だけ取り残されているようで、私はどうしても疎開したいと思っていた。母や姉は親戚のいる恩納村へ避難していたので、近くの叔父に相談し、自分で手続きを進めた。

 《戦いの足出まといになるとして、子どもやお年寄り、女性らを県外に移す「疎開」は国の政策で進められました。日本軍の食料を確保するという理由からでした。44年8月21日午後6時半ごろ、対馬丸は長崎に向けて出航します》
 疎開について「来年3月には戻ってこられる」「雪や桜を見ることができる」といわれていた。船にも汽車にも乗れるんだと。修学旅行に行くような気分でみんな喜んでいた。対馬丸はとても大きな船で沖の方に停泊していた。私たちはボートに乗り、近くまで寄って船に乗った。近所の友達6組ぐらいが対馬丸で一緒だった。見送りに来た母たちは泣きながらも「船出に涙を流してはいけない、笑って送り出そう」と気丈に振る舞っていた。

※続きは8月30日付紙面をご覧ください。

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