<未来に伝える沖縄戦>訓練20日、激戦地転戦 玉城深福さん(98)〈1〉


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中国、ソロモン諸島の激戦地での体験について語る玉城深福さん(右)の話を聞く渡口葉菜さん(中央)と大城珠利亜さん=6日、大宜味村田嘉里

 沖縄を離れ、大阪へ出稼ぎに出ていた大宜味村田嘉里出身の玉城深福さん(98)は現地で召集令状を受け取り、第6師団輜重兵第6連隊の教育隊に入り、訓練を経て日中戦争、太平洋戦争の激戦地を転戦しました。辺土名高校1年の渡口葉菜さん(16)、大城珠利亜さん(16)が話を聞きました。

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 1939年10月に赤紙、召集令状が沖縄から郵送で送られてきた。そのまま沖縄に戻らず熊本で部隊に配属された。そこでは、非常に仲のいい金城という小学校時代の同級生が同じ部隊に入ったので、お互い非常に心強く思った。
 20日間訓練を受けたら戦地に行けという命令が来た。夜中に予防注射を打って、どこに行くのか全然分からず、熊本を出発した。門司を経由して12月2日ごろに船が止まった。
 甲板に上がってみると、海の潮が赤かった。友達に「もしかしたら揚子江(長江)かもしれん」と言った。小学校で揚子江の水は赤いと聞いていたが、その通りだった。そこで小さな船に乗り移り、上流に向かうと南京に着いた。

 《玉城さんは前線に弾薬や食料、服などの物資を輸送、補給する「輜重兵」を務めました。中国では宜昌、長沙という街などを攻撃する戦闘に動員されました》

 第6師団には歩兵連隊、野砲連隊などがあり、私がいたのは補給部隊で、大砲の弾や食料を前線に運んだ。そこで金城とは別の部隊になった。中国では勝ち戦をしていたため、中国軍と対峙する戦闘の機会はあまりなかった。
 でも、山岳地帯の移動が厳しかった。向こうが梅雨のころ、5月、6月は大変だった。あまりにぬかるんでいることが多くてトラックが役に立たず、兵隊が交代で馬車を引いていた。その方が早かった。そのため、馬車にひかれてしまう兵隊もいた。冬の時季も大変で、野営の時は寒くてたまらなかった。羽地出身の兵隊が肺炎を起こして死んだ。体が丈夫な元気者だったと聞いていたのに。

※続きは9月13日付紙面をご覧ください。