沖縄を離れ、大阪へ出稼ぎに出ていた大宜味村田嘉里出身の玉城深福さん(98)は現地で召集令状を受け取り、第6師団輜重兵第6連隊の教育隊に入り、訓練を経て日中戦争、太平洋戦争の激戦地を転戦しました。辺土名高校1年の渡口葉菜さん(16)、大城珠利亜さん(16)が話を聞きました。
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《大宜味村田嘉里出身の玉城深福さん(98)の所属部隊は中国を離れ、1943年3月ごろブーゲンビル島のエレベンタに上陸しました。周辺では米軍が空域、海域を掌握し、弾薬や食料などの物資輸送が次第に途絶え、餓死や病死する日本兵が増えました》
ブーゲンビルはジャングルと険しい山。やんばるの山とは全然違った。その島に後方からの補給が何も来なくなっていた。食料がなく花芭蕉の芯を取って食べたり、塩の代わりに唐辛子をなめたりした。製塩班もできた。海水をくみに行くと戦闘機に見つかって、爆撃され犠牲になった戦友もいたが、塩が欠乏すると体が弱ったので必要だった。
農園班もできて、ジャングルを切り開いてイモを植えた。畑を耕していると爆撃されることもあり、イモがやられてしまうこともあって本当に悲しかった。
《米軍は43年11月、ブーゲンビル島のタロキナに上陸し、飛行場を建設しました。玉城さんがいた第6師団は米軍の飛行場を攻撃する奪還作戦を開始しました。敵地近くに偵察に行った玉城さんは、九死に一生を得る体験をしました》
飛行場の奪還作戦の準備の時、斥候(敵地をひそかに探ること)に行かされた。7人で飛行場や付近がどのような地形か調べた。状況報告のために部隊に戻る時、大きな川を三つ渡らないといけなくなった。川にロープを張り、7人が乗れる小舟でロープをつたって渡れるようにしていた。
※続きは9月14日付紙面をご覧ください。