那覇市出身で現在は与那原町に住む町田初子さん(83)は13歳の時、沖縄戦を体験しました。当時、那覇市牧志に住んでいた町田さんは、1944年の10・10空襲後、家族と共に本島北部の金武町へ避難しました。避難生活中は食べる物もなく、いつも空腹と闘っていました。町田さんの戦争中の体験を、知念高校1年の金城菜美さん(16)と糸数星花さん(15)が聞きました。
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当時、学校ではほとんど勉強した記憶はない。日本はあっちこっちで戦争をしていたから「日本が勝ったぞ」と聞いて、学校の周辺をみんなで行進したこともあった。当時はたくさん壕を造らされた。自分たちが逃げるためのものだけでなく、日本軍が使う壕も造った。まったく勉強どころじゃなかった。
那覇が米軍に攻撃された10・10空襲の時、私は家の近くの防空壕に逃げた。空襲の直前、久茂地小学校から港で船が燃えているのが見えた。最初は、単なる船の火事だと思っていたら、米軍に攻撃されたようだった。その後、間もなくして空襲があった。牧志にあった私の家は燃えなかったが、ここにいたら危ないということで、家族で浦添に逃げた。浦添では見ず知らずの人の亀甲墓の中に隠れていた。
数日間浦添に逃げて、那覇に戻ってきた。このまま那覇にいては危ないということで、45年2月ごろ北部に避難することになった。
※続きは10月11日付紙面をご覧ください。