<未来に伝える沖縄戦>収容所で母親亡くす 具志堅トミ子さん(75)〈4〉


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「私の中で戦争はまだ終わっていない」と話す具志堅トミ子さん=10月15日、うるま市栄野比の沖縄アミークスインターナショナル

 《喜屋武岬付近で兄5人と弟1人を亡くした具志堅トミ子さん(75)は、しばらく、足をけがした母親と近くの壕で身を潜めます。幼い具志堅さんは、一緒に隠れていた人たちから壕の外に出る際に、木の棒に白い布をくくり付け先頭に立つように促されました》

 何日たったか分からないが、しばらくすると壕の外では米兵の「カモーン、カモーン」という声がするようになったよ。
 捕虜になるときは周りの人から「前に立って、山の上に行きなさい」と言われた。後に木の棒に白い布をくくり付けた白旗の少女の写真を見た時は、親戚のおばさんから「あのもんぺはあなたじゃないの」とも言われたが、そうではなかった。私はどんなもんぺを着ていたか覚えていなかったが、当時の様子は思い出した。
 捕虜になってからはトラックに乗せられ、船のある港へ連れて行かれ、母とは別の船で、宜野座村にある収容所へと連れて行かれた。母とはどこではぐれたかは覚えていないが、宜野座の収容所で再会することができた。出会った時は私のことを死んだと思っていたのか、「生きていたんだね」と喜んだのを覚えているよ。
 収容所での生活はとてもつらいものだった。ご飯もしょうゆと水を混ぜたようなスープとおにぎりが1日に一回出るだけ。栄養失調の人は飲み込めないから、食べることができない。たくさんの人が亡くなっていくのを見たよ。

※続きは11月9日付紙面をご覧ください。