<未来に伝える沖縄戦>戦闘機工場員に徴用 武永文さん(87)上


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武永文さん(右)の徴用体験を聞く那覇商業高校1年の仲村なつねさん(中央)と古謝彩さん=11月20日、那覇市の琉球新報社

 石垣市新川出身で、現在は那覇市若狭に住む武永(旧姓・又吉)文さん(87)は、1943年8月に徴用され、滋賀県彦根市にあった近江航空の工場で戦闘機を製造、検査する女子として働きました。45年、工場工員は米軍による爆撃を受け、跡形もなく焼け落ちました。空襲で友人や同僚の死を目の当たりにした経験を、那覇商業高校1年の仲村なつねさん(16)と古謝彩さん(15)が聞きました。

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 石垣の新川で母と2人で畑をしながらね、貧しくても何とか食べていた。43年の8月のことだったよ。家にいきなり背広姿の男性3人が訪ねてきてね。背広姿の男性が家に来るなんて初めてでびっくりして、「私たちは何も悪いことしていない、どうしたんですか」と聞いたら、「役所から来た。国からの令状を持って来た」と言われたわけ。「徴用」と書かれた紙を見せられて、これを国から届けに来たと。今は戦争だから男も女もない。国から私の名前、「又吉文」で届いているから持ってきた、工場で働きなさいと言われたのね。着替え2枚と歯ブラシを用意しておけと。
 今日、船が出るからすぐにと言われた。当時、母が病気でそんなに急には行けない。せめて1週間ぐらい待ってとお願いしたけれど、「あんた1人のために待つことはできない」と。じゃあ私の母の面倒は誰が見るの? あなたたちが見てくれるかと聞いたら、「約束する。(働きに行くのは)1年だけ」と言われてね。そしたら、母が手を握って、「1年だったらすぐだから、いいよ。文、自分は元気にして待っているから」と言ってね。
 夕方6時ごろに迎えが来たよ。母がこれを持ちなさいと、かつお節の削りかすと芭蕉の葉っぱで包んだ油みそを内緒で私のポケットに入れてくれた。手を握って別れた。それが母の姿を見た最後だった。

※続きは12月13日付紙面をご覧ください。