<未来に伝える沖縄戦>空襲で同僚や友人失う 武永文さん(87)下


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人間の優しさを大切にしてほしいと語る武永文さん

 《武永文さん(87)が戦闘機の検査係として働いていた近江航空は、1945年から米軍の爆撃を受けます。多くの友人たちを失いながら、武永さんは必死で逃げ延びました》

 45年から、アメリカの空襲が始まった。軍需工場だから狙われてね。人もみんな焼けて、死んだ人の上を歩いて逃げるわけよね。死んでいるこの人にも親がいるはずね、きょうだいもいるはずねと泣きながら逃げた。

死んだ人を引き上げようとするんだけど重くてどうしようもできない。手を離すとごろんと倒れてね。自分の友達、今、手を離したばかりの友達を踏んで歩かないといけない。爆風で飛ばされて、電信柱にぶつかってね。行こうって手を引っぱっても動かない。見たら死んでた。私の手を握ってる指を一本一本外して、「ごめんね、ごめんね」って言いながら私だけ逃げた。一緒にお昼ご飯を食べていた人がこんな格好で死んでね。今でも夜寝る時に思い出して眠れない。
 何とか避難先だった彦根城の近くのお寺にたどり着いた。でも食べるものがないから畑から取ってきていた。内地はね、畑の中に穴を掘って野菜を埋めて貯蔵していた。ちょっと盛り上がっているから、それを目当てに男の人が見に行く。それで、どこどこに盛り上がっているのがあるとなったら、今度は女の人が盗みに行く。キュウリとかジャガイモとかを掘り起こして。火をたいたら見つかって爆撃されるから生でしか食べられない。包丁もない、歯の強い人がかじって平等に分けてくれたよ。
 沖縄の男の人はとっても優しかった。女には生理があるでしょう。男の人が服を破って女に渡すわけよ。これを川で洗って強く絞ってまた使ってたよ。1週間ほどで空襲警報が解除されて寮に戻ったら、工場も何もない。みんな焼けてしまっていた。

※続きは12月14日付紙面をご覧ください。