<未来に伝える沖縄戦>対馬丸撃沈で兄失う 安次富長文さん(77)〈1〉


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対馬丸と共に沈んだ兄の話や疎開先での体験を語る安次富長文さん(右)と話に聞き入る藤原茉帆さん(中央)、宮城佑香さん(左)=2014年12月19日、那覇市天久の琉球新報社

 那覇市高橋町(現・泊)出身で、現在、同市若狭に住む安次富長文さん(77)は戦時中、兄長晃さんと共に学童疎開船対馬丸に乗船する予定でしたが、前日に風邪をひき、船に乗ることができず、九死に一生を得ました。対馬丸に乗船した長晃さんは船と共に沈んでしまいました。その後、安次富さんは家族と共に、現在の熊本県八代市郡築と宇城市松橋町に疎開し、戦後は「闇市」で農作物を売るなどして生計を立てました。そんな安次富さんの体験を安岡中学校2年の藤原茉帆さん(14)と宮城佑香さん(13)が聞きました。

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 太平洋戦争末期の1944年、私は泊国民学校の1年生だった。当時は頻繁に防空壕に逃げる訓練をしていた。那覇市は自然壕があまりなかったため、今の新都心の近辺に約20~30メートルの防空壕を造って、そこに避難していた。当時は空襲警報の歌というものがあり、よく練習した。今でも歌詞を覚えている。1番の歌詞は「空襲警報、聞こえてきたら、今は僕たち小さいから、大人の言うことよく聞いて、慌てないで騒がないで、落ち着いて、入ってみましょう防空壕」だった。
 44年ごろは、戦争が激しくなり、沖縄にもどんどん中国や南方から日本軍が来ていた。当時の新聞は日本軍は好調で、いろいろな場所で勝っていると報道し、それを信じていた記憶がある。そのころから、学校が中心となって学童疎開を奨励していた。対象者は国民学校の3年生以上で、私は疎開の対象ではなかったが、兄の長晃を1人で行かせると兄が寂しがると思い、父が私も同行させるよう学校側と交渉し、私も乗船することになった。当時、怖さはなかった。私は修学旅行気分で、本土に疎開すれば雪も見られ、汽車にも乗れると思っていた。

※続きは1月10日付紙面をご覧ください。