<未来に伝える沖縄戦>機銃掃射に死の恐怖 安次富長文さん(77)6


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄戦の継承を願う安次富長文さん=2014年12月19日、那覇市天久の琉球新報社

 《熊本県八代市に疎開した安次富長文さん(77)は、そこで約1年間を過ごしました。戦争末期には八代市への空襲も相次ぎ、安次富さんたちは県内の別の場所への疎開を余儀なくされました》

 熊本県に疎開後、私は郡築の国民学校に転校した。1944年11月後半になると、熊本も米軍機の空襲があるようになった。八代市は工業地帯もあったため、攻撃の対象になった。戦争が激しくなり、郡築から同じ熊本の松橋町内田に移ることになった。私は1年生の間だけ郡築に残り、2年生になった時、家族の所に行った。内田は閑散とした田舎町で戦争らしい戦争はなかったが、一度だけダムみたいな所に遊びに行った時、米軍機の機銃掃射に襲われてやぶの中に隠れた。あの時は死の恐怖を感じた。

 《44年11月21日、米軍のB29戦略爆撃機80機が熊本市に多くの爆弾を落とし、4人が犠牲になりました。これが熊本での初めての空襲となりました。45年になると空襲が激しくなり、多くの人命や家屋が失われました》

 父は家族の生活を守るため、畑で野菜を作った。終戦後、生活は厳しくなり両親は数日かけて大阪の闇市場に行き農作物を売った。何度か警察に捕まって農作物を没収されたこともあった。郡築と同様に内田でもみんなに親切にしてもらい、ひもじい思いはしなかった。

※続きは1月11日付紙面をご覧ください。