<未来に伝える沖縄戦>飢えに苦しむ北部疎開 神谷房徳さん(85)〈1〉


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
米軍の空襲の中、疎開先に食糧を届けた神谷房徳さん(右)の話を聞く東風平中2年の井下陽佑君(中)、池原響希君=1月28日、八重瀬町

 八重瀬町志多伯の神谷房徳さん(85)は15歳のときに沖縄戦を体験しました。1945年3月の初めごろ、神谷さん一家は、家族で住んでいた東風平村(当時)から、久志村(現名護市)に疎開し、やんばるを逃げ惑い、保護されるまで飢えに苦しめられました。神谷さんの体験を東風平中学校2年の井下陽佑さん(15)、池原響希さん(15)が聞きました。

    ◇   ◇
 東風平村の青年学校に進んだ翌年の1944年の暮れから45年にかけては、南風原や豊見城、読谷などの飛行場造りに駆り出されて大変だった。家から歩いて行ってね。頑丈でなかったから、伝令の仕事をしていた。そのまま戦争が来て、もう勉強もできなかった。

 《1945年2月10日、県は本島中南部の市町村長や同地域の学校長を集めた会議で、3月までに10万人を国頭、大宜味など北部8町村へ疎開させる計画を立てました》

 1945年の3月初めごろ、軍の命令で久志に疎開することになった。私の家は軍が医務室にすると言ってね。86歳の祖母は、もう歩けなくなってどこに避難しても駄目だからと、家の後ろに壕を掘って隠れていた。(サトウキビを搾る)砂糖車に巻き込まれ右手の二の腕から下をなくした姉さんも、祖母の世話をするため残った。父と母、生まれて6カ月の双子の男の子と女の子を含めたきょうだい6人が疎開した。私は15歳でまだ若いし、弾薬運びもできるので残って兵隊の手伝いをするように言われた。家族がばらばらになるのが大変つらかった。

※続きは2月14日付紙面をご覧ください。