<未来に伝える沖縄戦>低学年も陣地造り協力 新田宗信さん(80)〈1〉


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新田宗信さん(右)の戦争体験を聞く與座啓仁君(左)と安里美咲さん(中央)=18日午後、北谷町の栄口公民館

 北谷町吉原に住む新田宗信さん(80)は戦争当時10歳で、米軍に保護された後、収容所での生活を体験しました。戦前の国民学校で実施されていた戦争に向けての準備や教育、収容所や終戦直後の生活の様子などを、北谷中学校3年の安里美咲さん(14)と2年の與座啓仁君(13)が聞きました。

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 1941年に、学制改革で改称されたばかりの北玉国民学校に入学した。登下校時は教師の指示に従って、軍の陣地を造るために、低学年から資材集めなどをさせられた。セメントに混ぜる石や、擬装用の陣地を造るための芝生も集め、小さいながらも戦争協力をしていた。日本は勝つということを教え込まれ、勝つと思い込んでいたので、作業はあまり苦にならなかった覚えがある。高学年は松の皮をはぐ作業もしていて、飛行場造りの作業にも従事していた。
 部落のはずれにはルーズベルトとチャーチルのわら人形があり、竹やりで人形を突き刺すのも登下校時の決まりで、先生に言われた通りに実行していた。当時はそれがとても惨めなことだとは想像もつかなかった。国旗を揚げている家は、誰かが兵隊に行っているということで、国のために戦地で活躍する兵隊のことをうらやましく思った。その意味で、今の子どもたちと私たちの世代が見る国旗は違って見えるのではないかと思う。

※続きは5月23日付紙面をご覧ください。