<未来に伝える沖縄戦>東風平で父と生き別れ 前原生子さん(79)〈1〉


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沖縄戦で両親と祖母を亡くした前原生子さん(左)の体験談に聞き入る源河蒼麻君(中央)と金城晶美さん(右)=6月28日、那覇市天久の琉球新報社

 那覇市牧志に住む前原(旧姓・渡慶次)生子さん(79)は、同市の首里当蔵町で生まれました。裕福な暮らしは戦争で一変し、激戦地の沖縄本島南部で父と母、祖母の3人を失いました。沖縄戦当時は9歳でしたが、恐ろしさは記憶に刻み込まれています。那覇市立松島中学校3年の源河蒼麻君(14)と金城晶美さん(14)が、前原さんの戦争体験を聞きました。

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 戦前は首里当蔵町の、首里城がすぐ近くに見えるところに住んでいました。家は400坪(1320平方メートル)くらいの土地があって、敷地の中に四つの貸家がありました。真ん中に自分の家があり、おばあさんとお母さんが質屋をしていました。父は那覇で会社に勤めてました。兄が3人いて、三男は旧制一中に通ってたの。夜になると蛍が飛び回るような、のどかなところだったね。食べ物もたくさんありました。

 《何不自由ない暮らしをしていた前原さんですが、徐々に戦争の足音を感じ始めます》

 小学2年生くらいから防空演習が始まって、防空頭巾をかぶって通学していました。サイレンが鳴ると夜でも明かりを消してろうそく1本で真っ暗にしました。それからどんどん、日本軍の兵士が入ってきて、朝晩は道にラッパの音が響いていました。最初は兵隊さんを偉いものだと思っていたのね。子どもだったけど、襟の星の数で階級が分かるくらいでした。
 10・10空襲より前だったと思うけど、アメリカ人が捕らわれていると聞いて見に行ったことがあります。首里のどこかだったと思うけど、目隠しをされていました。白人で金髪のような髪をしていて、とても珍しかったので覚えています。10・10空襲では、那覇一帯の空が火で埋まったように真っ赤になっていました。
 首里にも弾が落ちるようになって、けがをした兵隊が「水をくれー」と川に来ることも多くなりました。近くの壕の入り口に爆弾が落ちて中で人が生き埋めになりました。

 《戦争が激しくなり、両親は首里から逃げることを決めました》

 兵隊が島尻方面に逃げるので「守ってくれるだろう」とついていきました。逃げる時はどんどん弾が落ちてきて、死人を見てもあまり怖くなくなっていました。ただ弾が落ちる時のあの薬品の、火薬のにおいがすごかったです。死にそうなくらい変なにおいがした。それだけは脳裏に焼き付いています。
 親についていったので、どう逃げたのか分からないけれど、東風平に最初に着きました。お父さんは足腰が弱くて兵隊にも取られなかったので一緒に逃げていましたが、歩ききれずに「先になりなさい」と言いました。それでお母さんとおばあさんと3人で歩いて行きました。お父さんとは二度と会えませんでした。

※続きは7月11日付紙面をご覧ください。