<未来に伝える沖縄戦>学校生活妨げた空襲 保志門繁さん(84)〈1〉


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山の中での避難生活について説明する保志門繁さん(右)の話を聞く浦添中3年の田盛佳香さん(中央)と柳原悠剛君=8日、浦添中学校

 浦添市に住む保志門繁さん(84)は旧具志頭村(現八重瀬町)新城で生まれ、14歳の時に沖縄戦を体験しました。日米両軍の戦いに巻き込まれ、祖母と父、妹、弟の4人を失いました。戦争で家族を失った心の傷は今も癒えずにいます。保志門さんの体験を浦添中学校3年の田盛佳香さん(14)と柳原悠剛君(15)が聞きました。

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 1944年10月10日、沖縄では大規模な空襲があったんだ。当時、僕は私立開南中学校の寮生だったが、空襲後は具志頭村新城の実家に引き揚げて家族と一緒に生活した。中学でちゃんと授業を受けることができたのは、ほんのわずかな時間だった。過酷な軍作業に明け暮れる毎日で、学友との交流の時間も限られていた。だから大人になって同級生に会っても名前が分からない人が多いんだよ。

 《45年3月23日。米軍は上陸に備えて沖縄本島に爆撃を開始します。保志門さんの家族は砲弾から身を隠すために、新城の山中に掘られた防空壕に避難しました》

 3月の終わりごろだったか。具志頭村港川の海に米軍の軍艦が現れた。怖いもの見たさで丘の上から海を見ていた僕は、子どもながらに「いよいよ敵が上陸する」と思い恐ろしくなった。具志頭村の山の中には、米軍上陸に備える日本兵たちが大勢いたので「これだけ兵隊がいれば何があっても大丈夫だ」と心強く思った。しかし米軍は港川からは上陸せずに慶良間と北谷の方へ向かった。
 実家の近くの玉泉洞の谷間には1キロくらいの川があった。米軍の空襲が始まってから、僕ら家族6人と親戚はその川の周囲に掘られた横穴式の壕に避難した。壕は4畳半くらいの大きさでとても狭かった。みんな体を小さくして寝ていた。大きなつぼに入ったみそを持って避難していたので家族で分けて食べた。みそがあれば、ヤギが食べるような雑草でも案外おいしく食べることができたんだ。
 2カ月ほどそこに隠れていたが、5月の終わりごろになると首里からたくさんの日本兵が南部に撤退してきた。僕たちの壕にも日本兵がやって来て「軍が使うから壕を出て行くように」と命令した。

※続きは7月25日付紙面をご覧ください。