<未来に伝える沖縄戦>母の背中で弟も死んだ 保志門繁さん(84)〈3〉


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沖縄戦で家族を次々に失ったつらい体験を語る保志門繁さん=8日、浦添中学校

 《1945年5月下旬。米軍の攻撃で妹を亡くした保志門繁さん(84)は、悲しみに暮れる間もなく、日本兵に追い立てられて南部へと向かいます》

 僕ら家族は東風平村(現八重瀬町)富盛を通って南へと向かった。空から次々と弾が降ってきたが、隠れる場所がなかった。民家の石垣や岩や木の下に避難した。

6月5日、真壁村(現糸満市)真栄平で祖母のウシが弾に当たって死んだ。62歳だった。
 悲しむ間もなく新垣から米須へと避難した。米須で父が、突然「今日は皆にちゃんとした飯を食べさせてやろうね」と言って、部落の畑から取り残しの小さな芋を取って戻ってきた。「葉も一緒に食べよう」と話していた直後、米軍の集中砲火に見舞われた。攻撃がやむと、親戚が「タルー(太郎)がさったっさー」と叫んだ。見ると父の上に大きな石が落ちていて、あぶくのような血を口から吹いている。母が「ムヌユマリーミ(何か言うことはあるか)」と聞くと、大きな呼吸をして血のあぶくを吐くだけだった。5分ほどで死んでしまった。近くの民家の入り口に艦砲の穴が開いていたので、母と2人で父を引っ張って泥をかぶせて埋葬した。6月15日のことだ。その2日後、今度は母が背負っていた弟が栄養失調で死んだ。崖の上に弟を埋めた。

※続きは7月26日付紙面をご覧ください。