<未来に伝える沖縄戦>軍服脱ぎ九死に一生 吉里孝栄さん(88)〈3〉


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沖縄戦の戦禍に巻き込まれ、部隊を転々としたころを思い出して語る吉里孝栄さん=7月1日、沖縄市桃原

 《1945年5月末に米軍が首里を制圧した後、独立混成第44旅団にいた吉里孝栄さん(88)=当時18歳=は、爆弾で自爆して相手を攻撃する「斬り込み隊」として旧真和志村の安里戦線に向かうよう命じられました》

 新品の軍服に替えて、安里戦線へ向かいましたが、敵の攻撃があって、昼は壕にしかいられない。国場の壕で、晩になったら出るつもりで準備をしていたら、ある日、砲弾が直撃し、生き埋めになりました。なんとかはい出た。その後、前線の後退で、斬り込み隊は南部へ下がり、旧東風平村まで行きました。移動する時、南風原の津嘉山辺りに流れている川の川岸に住民の遺体が山積みにして置いてあったのも見ました。
 南部に下がる途中、米軍と撃ち合いにもなりました。上からは空襲。東風平でも2日くらいしか持たなかった。
 部隊はさらに、旧具志頭村、旧真壁村へ南下しました。真壁の真栄平で山の岩の片腹に群れをつくって待機していると、艦砲の破片が当たりました。直撃で、手が切れました。血がだらだら出ました。そのころは飯も食べておらず水だけ。一晩に水筒5杯くらい飲みましたが、栄養失調にもなっていました。
 真栄平から、旧摩文仁村伊原の陸軍病院の壕に行き一晩、同村摩文仁の壕に約3日いました。
 防衛隊にいる時は、逃げることも負けることも考えられなかった。逃亡兵は、晩の点呼で逃げていることが分かると、翌日捜されて銃殺されていましたから。

※続きは8月9日付紙面をご覧ください。