《弟の危篤の報告を受け、首里の沖縄師範学校から古里の東村川田に戻った金城昂さん。4月2日から始まった山中での避難生活は、飢餓との闘いでした》
4月11日からは村川田区のさらに山奥にこもりました。米軍は平良区に続く道の先の丘に駐留し、海から水陸両用車で物資を運び、道も造っていました。住民は近寄れませんでした。
食料は1週間ぐらいで尽きました。夜、畑に行って照明弾の光から隠れながら芋を掘りましたが、村以外から来た避難民もいて山は街みたいでしたから、畑の作物は10日も持ちませんでした。
中南部の避難民も地元の人も飢えていましたが、殺し合いや奪い合いはありませんでした。沖縄人の美徳だと感じます。飢餓に耐えられず地元に戻ろうとする人が米軍に殺されたと集落の人から聞きました。飢餓生活ではカエルはごちそう。ネズミ、キノボリトカゲ、セミ、ありとあらゆる物を食べました。そうこうして1カ月が過ぎると飢餓状態が普通になりました。
5月ごろ、戦闘が激しくなった中南部に移動したのか、川田区にいた米軍が一度引き揚げました。米軍がいた敷地に食料の缶詰が埋まっているとの話が出回り、みんなで土を掘りました。そのほとんどが川田区以外の住民でした。
6月23日以後、戻って来た米軍の捜索が再び始まり、食料がないままで山に閉じ込められました。2回目の米軍は駐留しないので、米軍がいなくなる午後5時以後は食料を探す人で道はいっぱいでした。2回目の避難の時には山にいても食い物がないから、高江の方の海岸に避難してソテツを取りました。
高江の浜で休んでいる時に家族全員が米軍に捕まりました。家族は羽地村(現名護市)の田井等収容所へ、私は今帰仁村今泊収容所へ。収容所は飯は3食ある。早く捕まっておれば良かったと思いました。山での生活は忘れられません。悲惨すぎて家族にもちゃんと話したことはない。
※続きは9月13日付紙面をご覧ください。