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海の向こうで琉球芸能を継ぐ若者たち <沖縄芝居五月九月 南米ツアー同行記>下(千葉聡史・元NHK沖縄放送局長)


海の向こうで琉球芸能を継ぐ若者たち <沖縄芝居五月九月 南米ツアー同行記>下(千葉聡史・元NHK沖縄放送局長) 高校2年と3年生は週に1回、三線の授業がある。諸見謝春夏さん(右端)らがこの日練習していたのは「安里屋ユンタ」「てぃんさぐぬ花」「島人ぬ宝」=ボリビアのオキナワ移住地オキナワ第一日ボ学校
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 「地球の裏側に沖縄よりも沖縄らしい場所がある」。演出家の富田めぐみからそう聞いて、「五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)」の南米公演に同行することを決めた。

 その場所とは、ボリビアのコロニア・オキナワ(以下、オキナワ村と表記)。日本以外でオキナワという名前が付けられているのは世界でここだけだ。オキナワ村は、ボリビアの大都市サンタクルスから100キロ離れたところにある広大な農村である。戦後、職を求めて多くの人が沖縄からボリビアに移住し、苦難の末、アマゾンのジャングルを豊かな農地に変えた。現在、人口1万4千人のうちおよそ800人が沖縄からの移住者とその子孫たちである。

 村を歩いてみると、いろいろな「オキナワ」が見えてきた。村の真ん中には、大きな鳥居。メインストリートは「琉球通り」で、日本食レストランや沖縄食材などを扱う商店、豆腐屋などが並んでいる。日本語学校には、三線の授業もある。個人の家にお邪魔するとトートーメーやヒヌカンもあった。

 この村で「五月九月」南米ツアー、3回目の公演が行われた。実はこうした海外公演は集客のため大都市中心になるため、当初公演の予定はなかった。しかし「どうしても村で暮らす移民1世のおじぃおばぁに沖縄芝居を見せたい」とボリビア沖縄県人会が要望したのだ。だが、困ったことにその予算がない。芝居の運営を任されている県人会は、急きょ、寄付を募った。知り合いに声をかけ、公演の会場の入り口で寄付を募り、あっという間にその額は200万円を超えたというからすごい団結力だ。

 村での久しぶりの沖縄芝居は無料公演。70代から90代の移民1世の多くが楽しんだ。1960年に16歳でオキナワ村にやってきた金城ヤス子さんもその一人だ。「もう胸がいっぱいです。最高です。生きていると、またこんなことがあるかもしれませんねえ」

 なぜ、ここは沖縄よりも沖縄らしいのか。手掛かりを求めて、さまざまな人に話を聞いた。そのうちの一人、移民3世の諸見謝春夏(しょみじゃはるか)さん。高校3年生の春夏さんは琉球芸能が大好きで、三線も大太鼓も得意だ。「音楽、踊り、価値観、ウチナーンチュの持つものすべてが好きです。ウチナーンチュであることに誇りを持っています」

 春夏さんに大きな影響を与えたのが、移民1世の祖父、幸雄さんだった。移住前に大工をしていた幸雄さんは、手先が器用なのを利用して三線や大太鼓を作っては村の人々に無料で提供した。干ばつや水害など苦難が続く中、三線を弾き民謡を歌うのが人々の心のよりどころだった時代だ。

 春夏さんは言う。「おじいちゃんの孫であることが誇りです。おじいちゃんが作ってくれた楽器を演奏するのが大好きです」

 今年、春夏さんは大きな決断をした。亡くなったおじいちゃんの後を継ぐことにしたのだ。太鼓不足で、創作エイサーのグループの活動が危うくなってきたからだ。自宅横の離れの小屋で、週に1回、大太鼓を修理・制作し、人々に提供している。「私たちが継いできた沖縄の文化を後輩たちの世代にも続けていってもらいたいです」

 オキナワ村の沖縄らしさは、遠く離れた故郷へのあこがれからなのか、苦難の歴史があったからなのか、自分のアイデンティティーを得ようとするためなのか。3日間の取材ではもやもやしたままだったが、一つだけ確信したことがある。文化は自然に継がれていくものではなく、諸見謝さんたちのようにひとりひとりの強い思いや努力の中で受け継がれていく。その積み重ねた時間がオキナワ村を支えているのかもしれないと感じた。

 (千葉聡史・元NHK沖縄放送局長)