prime

<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>99 地域と組踊(4) 王府編集本を書写し伝播


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>99 地域と組踊(4) 王府編集本を書写し伝播 伊江島で上演された組踊「久志ぬ若按司」=2012年、伊江村農村環境改善センターホール
この記事を書いた人 Avatar photo 外部執筆者

 琉球文化圏において組踊が上演されている地域には必ず組踊本が残され、さらに上演せずとも組踊本が地域に残されているという状況から、地域に組踊が伝播(でんぱ)するために重要なのは組踊本の伝播であると考えられる。そもそも、組踊は王府によって創作された。池宮正治は組踊という演劇が、発生した段階で高度な演劇であることを説明するために、玉城朝薫が組踊を創作した時点で組踊本が存在したと言及している。しかし、残念ながら朝薫の時代(もしくは朝薫直筆)の組踊本は現存していないのである。

 組踊は王府の行事に上演される芸能であり、1838年に行われた尚育王の冊封の『冠船躍方日記』を見ると、躍奉行という、王府が臨時に設けた奉行の管理の下で、稽古・上演されてきたことが分かる。

 しかし、ここで一つの疑問が残る。士族たちはどのようにして組踊本を手に入れ、日常的に稽古をしたのであろうか。組踊は王府によって創られた芸能である。現在、王府に残されているのは同治6(1867)年の『組踊』ただ一つである。おそらく王府にはこれ以外に組踊本を編集していたに違いない。まずは王府の冠船関係資料の編集を例に考えてみたい。

 先述の『冠船躍方日記』には踊りのプログラムを記した「躍番組」を記載した「躍組」という資料があることが指摘されている。また、『冠船躍方日記』には1838年より前の1808年、1800年の演目も記載されていることから、王府は冊封が行われる度に、その宴に必要な資料を編集していた。冊封使側に渡す組踊の漢訳資料「演技故事」は1838年、1866年と同じ種類の資料が残されており、それぞれを比較すると、ほとんど丸写しであることが分かる。

 このように王府による冠船関係資料、特に組踊に関わる資料の編集やその状況を鑑みれば、朝薫が組踊を創作した1719年から王府が編集した組踊本があり、それを行事ごとに写して使用していたと考えることができよう。また、このことから『具志頭家本組踊集』や『今帰仁御殿本組踊集』、『恩河本小禄本組踊集』のように、首里・那覇を中心とする士族家に組踊本が残されているという事実から、王府編集の組踊本との関係が次のように考えることができる。

 王府の組踊本(行政文書)から、歴代の躍奉行の按司奉行へ、按司奉行から出演する士族や一般士族へ、さらに先島に住む士族たちが首里奉公の際に書写する、といった流れである。このような流れから組踊本は広まり、現在みられるように、沖縄本島北部、周辺離島、宮古、八重山、与那国といった先島まで組踊の組踊本は伝播していったと考えられる。もちろん、この流れは必ずしも王府から八重山地域まで直線的に流れるわけではなく、組踊本を書写した士族から別の士族が借りて書写する、といったように書写の流れは横にも広がりながら伝播していったと考えられよう。しかし、一番大事なのは組踊が王府の命によって創作された芸能である、ということである。王府によって創られた組踊の組踊本や資料がなければ、士族家に所蔵された組踊本は生まれなかったと考えることができると思われる。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)