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知識と教養で紡いだ琉歌 「本部ミャークニー」 下 <島唄を求めて>3曲目 小浜司


知識と教養で紡いだ琉歌 「本部ミャークニー」 下 <島唄を求めて>3曲目 小浜司 「本部ミャークニー」の歌詞をたどり、本部の集落を道行く仲程利光さん=6月19日、本部町(喜瀬守昭撮影)
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 「宮古根(ナークニー)」の名称について考察してみよう。宮古歌謡は三味線のような楽器の伴奏なしで近代を迎えた。宮古の農民は三絃(さんしん)を持つことさえ許されず、手拍子の口伝えによって、神との語らいや踊り、歴史英雄譚(たん)、そして暮らしや生活などを歌い継いできた。宮古民謡が本格的に三絃を伴って歌われるのは戦後1950年代以降である。

 宮古島には「うた」を意味する言葉がいくつもあるが、現在の宮古では歌謡はすべて「あやぐ(あーぐ)」と称している。沖縄音楽伝承研究家の杉本信夫(1934~2022)によると、あやぐの中でも「トーガニ」という形式では、「人々は即興的に自分の想いを歌詞にして、人間の愛の情愛をうたいかわす。恋愛の場でも、祝いの席でも、互いにうたいかえし、親愛の情を通じ合うのである(『沖縄の民謡』)。「トーガニ」は近世に生まれた「あやぐ」とされ、その語義は「すばらしい絹糸の音色を意味する『糸音(イチュニ)』の対語『トーガニ(唐の音)』であろう」(新里幸昭「宮古の歌謡」)。語源はさておき「トーガニ」は「唐歌」というよりも琉歌や和歌の短詩形の影響を受けている。「トーガニ」も八重山の「トバラーマ」も短詩形の自由定型抒情歌として発達したのである。

那覇から持ち帰る

 王朝時代「大和粗品、唐誂(やまとぅそうべぇ とうあちれー)」という慣用句があり「日本製品は粗悪で唐(中国)のは上等」という意味で使われ、唐のモノは小洒落(こじゃれ)た質の良いものとされた。では、宮古の若者は何処(どこ)でおしゃれなブランド品を手に入れたのだろうか? 直接「唐」からというより、当時の一大消費地であった「那覇」と考えた方が良さそうだ。宮古と沖縄との交流の始まりは14世紀終わり頃とされ、16世紀末には、宮古人は毎年のように貢物を持って那覇に逗留(とうりゅう)した。宮古、八重山の貢租を収納管理する「宮古御蔵」に半年間ほど滞在し、「貢物運送だけでなく、首里・那覇の知識人と交わり、あるいは日用品を求めたりで、見聞を広めて帰った」(仲宗根將二『宮古風土記』)。

 持ち帰ったのは何も品物だけではなかっただろう。琉球列島の歌謡文化が移り変わる時代、先島においても他島と刺激しあいながら独自の歌の山脈が形成され広がって行った。

 筆者は「トーガニ」と「ナークニー」は、対をなすものと解釈している。

 仲程利光さんとの「本部ミャークニー」の話に戻ろう。

 小浜 大堂原にて遊んだのち、「本部ミャークニー」の作者は黒山を下に見て、伊野波と満名(並里)に向かいますが、「黒山」というのは?

 仲程 黒山を伊野波の方から見上げると、なんだかシジダカ(神々しい)く見えるけど、僕らの小さい頃は、戦争もあって、結構岩肌が露出していた。そして実際黒い山だったんです。もしかしたら黒い鉱物を含む鉱山ではないかと思うんです。

 小浜 伊野波と書いて「ぬふぁ」と呼びますが、「い」の音が音便化した?

 仲程 僕の考えでは「イノー(珊瑚礁の浅い海)」が語源ではないかと。伊野波間切が創設される前は「上ぬふぁ(端)」が今の伊野波。「下ぬふぁ(端)」が満名、今の並里。間切の創設時に「満名」か「並里」か相談したらしくて「並里」になったと。

北谷真牛

 『本部町史』によると、「本部間切」は1666年に今帰仁間切を分割して新設されたが、当初は伊野波間切と名付けられていた」。本部半島の近海は良い漁場であった。その昔、満名川流域のヌファターブク一帯は海であり、魚が寄り上がってくる場所で、伊野波村は本部地域の中心であった。

 小浜 健堅、崎本部あたりが元々の本部ですか?

 仲程 崎本部には北山滅亡時の本部平原(てーはら)という武人がいて、史料には悪く書かれているけど、情に厚い人だったという話もある。健堅にはそれ以前に健堅大親という賢者がいて、中国皇帝から褒賞を賜ったという。どの集落も間切以前の歴史がある元祖・本部といって良い。

 小浜 満名・伊野波で遊んだ一行は浜川、泉河そして屋比久へと向かうのですが。

 仲程 浜川は昔から湿地帯。田圃も広がっていたけど、伊野波の墓地帯になって前を通るのも怖かった。「北谷真牛」の墓もここにある。この道を通る時に「百名節」を歌うと、マヤー(霊的に迷わ)されたという。その理由は誰も語ろうとしなかった。

 古典音楽「百名節」の伝説的ヒロイン・北谷真牛は北谷出身で、墓は伊野波(浜川)にあるという。彼女が歌を歌い始めると、空飛ぶ鳥も聞き惚れて思わず羽を休めてしまう。それ程の美声の持ち主だと、普通の暮らしは出来ないかもしれない。北谷真牛行くところ、鳥だけではなく、いろんなモノが立ち止まったであろうことは想像に難くない。安らかに眠ってほしい。

 小浜 遊びする泉河、花ぬ屋比久とまだ伊野波の範疇なんですね?

 仲程 この辺はみんなヤードゥイ(屋取)集落なんですよ。明治以降に移住してきた。新しくできた地名もおそらくヤードゥイの人達が付けたと思うんです。「泉河」というのも僕の考えでは「新墾」、新しく開墾した土地を「泉河」と当てたんだと思う。琉球の音楽史的超大物の子孫たちも来て密かに暮らしていた。そんな知識と教養が「本部ミャークニー」の琉歌を紡ぎ、また、現在活躍するプロ歌手達の出現ともなっているんじゃないかな。

 まだま道行は続いたが、ここで一旦(いったん)ペンを置くことにする。

(敬称略)
(島唄解説人)

(次回は9月12日)


<肝探(ちむさぐ)いうた>自在に変化する島うた

 「本部ミャークニー」

一、大堂原若地(うふどうばるわかじ) 真下地(ましちゃじ)ぬくびり
  黒山(くるやま)ぬ下(しちゃ)や 伊野波(ぬふぁ)と満名(まんな)

二、満名から伊野波 流(なが)りやい浜川(はまが)
  遊(あし)びする泉河(しんが) 花ぬ屋比久(やびく)

三、遊でぃ太田原(うふたばる) 戻(むどぅ)る与那城(ゆなぐしく)
  暁(あかちち)ぬまひゃい 港渡(んなとわた)い

四、長さ長崎(ながさち)ぬ 漁火(いざいび)ぬ美(ちゅ)らさ
  船浮(ふなう)きてぃ美らさ 渡久地港(とぐちみなと)

五、渡久地から登(ぬぶ)て 花ぬ元辺名地(むとぅひなじ)
  遊び健堅(きんきん)に 恋(くい)し崎本部(むとぶ)

 知名定男は「ナークニー」の説明として次のように語っている。「宮古島の『あやぐ』、多良間島の『多良間ションカネー』、伊良部島の『伊良部トーガニー』、与那国島の『与那国ションカネー』、八重山の「トゥバリャーマ』、そして本島の『ナークニー』。この六曲を五線譜にしてグラフにしたことがある。するとどうだろう、全く同じ形の折れ線グラフが出来上がるのだ」(音楽之友社「ウチナーのうた」)。

 考えてみると、いろんな歌手がいろんな「ナークニー」を歌っているのだが、どれもその人の個性があり、若い人たちにはもっと「ナークニー」を歌ってほしいものだ。「本部ミャークニー」「今帰仁ミャークニー」に「やんばるナークニー」。普久原朝喜・鉄子歌う「ナークニー~ハンタ原」、金城睦松「中頭ナークニー」、嘉手苅林昌・大城美佐子「芋掘いナークニー」。また、「門タンカー」や「やっちゃー小」などはナークニーの変化歌である。

 なるほど、その土地によって、人情や環境によって自在に変化する島うた、それが「ナークニー」だ。