ふと、津堅島を訪ねたいと思った。というのも、歌と三絃(さんしん)の元祖・赤インコの生誕地とされるこの島に2021年、モニュメント(石碑)が設置されたというので、この目で確かめたいと思ったのだ。また、300年程前の津堅島の生活と風俗を歌い、古いウチナーグチを残す民謡「取納奉行」の地を求め歩きたかった。筆者は、琉球国民謡協会会長にして、津堅島定期航路を運営する(有)神谷観光の代表取締役、そして「赤犬子生誕地整備事業実行委員会」の共同代表でもある民謡歌手・神谷幸一にその旨を伝えると、快く案内を引き受けてくれた。多謝。
小浜 生まれも育ちも津堅島ですか?
神谷 私は(旧勝連町)南風原生まれで、育ったのが津堅島。島の一番高いところが海抜36メートルで、戦時中36高地と呼ばれた日本軍の要塞(ようさい)だった。本島上陸を阻止するための防波堤として陣地が構築されて、住民は川田とか塩屋とかに強制移住させられていた。島の若者は守備隊に組み込まれ、1945年4月、3度のアメリカ軍上陸で島は壊滅した。私は49年、2歳の時移住した。本当に何もなかったよ。
1740年頃編集されたとする『遺老説伝』によると、中城間切・喜舎場村の「喜舎場子」が妻(妹とも)と二人で苦心の末たどり着いた時、思わず「チキタン(着いたぞ)」と叫んだ感嘆の言葉から「津堅」の名称が生まれた。島には既に住んでいた人々がいたが「彼は先住民たちからことのほか尊敬され津堅島開拓と繁栄の始祖となった」(『津堅島の記録』)」。 「喜舎場子」のように「子」とつく人物は古代沖縄において集落の首長的人物とされ、喜舎場子の島への移住は、その後の王府との関係がはるかに強化されたことを意味する。
小浜 赤インコは津堅島で生まれて津堅島で育った。
神谷 はい。赤インコの母親は読谷山の楚辺の役人で、いろいろあって津堅に逃れて来た。
小浜 犬を連れて。
神谷 赤い犬を連れてたから「あいつは赤犬の子だ」と。我々(われわれ)は「阿嘉ノ子」の名称で尊敬している。ここ「シヌグガマ」で生まれて、気丈な母親の手で12、3歳まで育てられた。成人してからは三味線持ってあちこち放浪した。今ではその音色も地球の裏側までも届いている。大体500年くらいも昔の人だから、ガマ(洞穴)も埋もれてて、1メートル50センチくらい砂を掘り起こして、石碑を整備した。私は朝起きたら床の前で毎日この碑のある御嶽の方角に向かって「ウートートー」しているよ。
♪歌と三味線の むかし初(はじまい)や
犬子音東の 神の御作ー作田節ー
「琉歌百控乾柔節流」の初段古節部に、この琉歌は赤犬子神(いんこねあがり)、音東神(おもろねあがり)両人作としている。「ねあがり」とは音頭取りのこと。伊波普猷は「詩人や音楽家を神といったりした所を見ると、琉球民族は古くから芸術を愛する傾向を有ってゐたらしい」(『古琉球』)と述べている。
神谷 津堅島には武士(空手家)も多く居た。王府の権力争いに敗れた津堅ペークーが隠れ住んで、棒術を教え、彼の弟子の津堅赤人(あかっちゅ)は中国で虎を倒して帰ってきて「彼処(あま)や国ん大(まぎ)さしが、猫(マヤー)んまぎさたん」。
小浜 津堅島の民謡といえば「取納奉行」ですが、古い歌なので、神谷村が神村に変わって歌われている。神谷村と幸一さんは関係ある?
神谷 いや、我々は首里から。「取納奉行」の歌詞はよく勘違いされている。みんな「津堅バンタに登てぃ」と歌うけど「ハンタ先登てぃ」が正しい。津堅の人は「津堅バンタ」とは言わない。三番の「津堅浜」とも言わない。津堅島には8カ所の浜があるから。「泊(トマイ)浜着きたりば」となるわけさあ。津堅渡(津堅島沖)は波が荒い。喜舎場子が荒海を漕(こ)ぎ渡り来た時、妻が濡(ぬ)れた袴(はかま)を干した「ハカマ石」というのが今でもある。
「取納奉行」とは首里王府の一行政機関。「間切村々を巡視して農民の状態を調べ、農事に勤労せしめ、風俗習慣を整えしめた」(『琉球史辞典」)。しかしこの歌を聞く限り、風俗習慣を整えたというより当時の封建制度のもとで役人はやりたい放題だった。
神谷 ヒロインの「チブヌギカマド小」は。
小浜 美人の多い津堅の女性の中でも、粒ひとつ抜けたちゅらかーぎ。彼女が取納奉行を接待した。
神谷 「カマド小」は別の家に嫁に行ったんだよ。だけど昔のサムレーはそんなこと関係ないさあ。美人だから。彼女との間に子供もできて、カマド小を呼びに行く時に腰を下ろしたという岩が今でも残っている。「化粧するから待っといてね」と2時間待たせた。
王朝時代、百姓は移動を禁じられ、島の女性は島から出ることを許されなかった。美童達(たち)は取納奉行の一行が来て、接待を命じられるのを喜んだ。中央の最新の情報が得られるし、首里のブランド品がお土産でもらえるのでキャッキャした。「いぐましゅん」は「意気込んで」という意味で奉行一行はやって来た。囃子(はやし)言葉の「オーヤッサー」の「オー」とは「はい」と応諾の意。歌詞の中に「おおやっさんすしどぅ 銭金や儲きゆる」とおだてられて接待に励んだ。ところが、下っ端で貫禄のない役人はケチで、大したものは得られなかった。面白くないのは島のニーセー(青年男子)達だったかもしれない。
小浜 貫禄のない痩せた役人を「ワタカリ(腹枯)」と揶揄(やゆ)した。
神谷 津堅島では悲しい歌だけど、テンポもよく、踊りも面白そうに振り付ける。仕方ないさあ当時は。
(敬称略)
(島唄解説人)
肝探いうた
躍動感と迫力ある演舞
取納奉行
一、いぐまする収納奉行(しゅぬぶじょう) 何時(いち)がめんせが頭(かしら)ぬ達(ちゃ)
今日(ちゅう)や浜比嘉(ばまひじゃ)から 御越(うくし)しみせん
*ハーリヌ オーヤッサー
二、バンタ崎(さきん)登(ぬぶ)てぃ 浜(はま)ぬ先(さち)見(み)りば
誠収納奉行(まくとぅしゅぬぶじょう)や 御越(うく)しみせん
三、トマイ浜(ばま)着(ち)きたりば 収納奉行(しゅぬぶじょう)ぬ召言分(みせぶん)に
今日(ちゅう)や美童(みやらび)取(とぅ)てぃ呉(くぃ)りよ 津堅(ちきん)ぬ 頭(かしら)ぬ達(ちゃー)
四、収納奉行(しゅぬぶじょう)ぬ美童(みやらび)や 誰(た)がなゆが 我(わ)ん頼(たぬ)ま
津堅(ちきん)神谷村(かみやむら)ヌン殿内(どぅんち)ぬ 粒(ちぶ)ぬぎカ マド小(ぐわー)
中略。
十、収納奉行(しゅぬぶじょう)ぬ御情(うなさき)や 匂(にう)い鬢 付(じ)き
香(か)ばし物(むん) うりゆか他(ふか)にん
紙包(かびぢち)ぬん数々(かじかじ) 有(あ)いびたん
十一、御役人衆(うやくにんじゅ)ぬ志情(しなさき)や
持(む)ち掛(か)け手巾(てぃさじ)に指金(ゐーびなぎ)
わたかり役人(やくにん) 取(と)ゐ持(む)っちゃる栓(し)ぬん 立(た)たん
民謡「取納奉行」は津堅島出自の民謡である。取納奉行とは徴税監督官のこと。王府は時代がくだるにつれて国の財政を充実させる段階に入った。1728年、さらに強化する必要に応じ、取納奉行の役職を置いて監督した。地方の間切(村)はあの手この手でもって税金を緩める手立てを探る。それには美童達の接待が一番だ。
取納奉行一行を乗せた船が津堅島の海上に姿を見せると、島の頭達は、奉行の世話役は誰が良いかと相談する。中でも粒抜けて一番美人のカマド小がやはり相応しいと全会一致。他にも指名された美童達は首里からの珍しいお土産をおねだり出来る絶好の機会であるから大はしゃぎ。でも着ていく服も下着もない。そこは大丈夫、教育係のパーパー(おばあさん)が抜かりなく準備してくれる。何でも「はいはい」と答えて気軽に動いてこそ良いことがあるのだよ、と諭される。
逆に「イヤだイヤだ」と言っているとしまいには尻叩かれるよ、と警告。いよいよ接待が始まった。奉行の情けは瓶付油に香水にそれから小遣いのおひねりなどあったけど、下っ端の痩せた貫禄のない役人ときたら、手拭いに木の指輪だけ。全くもてなした甲斐がなかったわ。