娼妓仲間に頼まれたことは・・・<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>2


娼妓仲間に頼まれたことは・・・<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>2
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

日本の夏の風物詩といえば怪談。怖い話にドキドキしながらも聞き入ってしまうのは人のさがかもしれません。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で前触れなく連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼び掛け集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月間34回にわたって連載されました。当時の琉球新報は4ページ構成。1ページの三分の一以上を割いて怪談を掲載する当時の新聞の大らかさと怪談の人気っぷりを感じます。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動、旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第2回もまた、亡霊に頼まれごとをする話です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(二)
之も亡霊に頼まる

幽霊は女の専売で、四谷のお岩とか皿屋敷のお菊とは昔から名高い幽霊は女に多い。なるほど髭がムシャムシャ生えた大男が大股に歩いて来て「ヤイ、恨めしいわい」などと言ったってちっとも凄みがないが、ドロ火に先触れさせて青白い顔に長い黒髪を振り乱し、絞り出したような枯れ枯れした声で「恨めしい・・・」と出られると凄くなる訳だ。

関羽なども始めは幽霊のつもりで出たろうが、あの堂々たる容貌をそのまま、長い髭を握り青龍刀をひっさげて出たものだから、幽霊としては少しも値打ちがない。そこでとうとう神として祭り上げられたものと僕は推測する。

西洋の幽霊はあまり芸もなければ怖くもないような案配で、子供が平気で見に行くそうだ。何でも幽霊は日本が一番進歩しているように思われる。ところが本県の幽霊はあまり単調で秀逸の怪談になりそうな材料はあまり聞かない。

僕のは自分で見たのではない。見た人から聞いたという人の話だから又々聞きであるが、筋は渡地の話とよく似ている。これは故人となったが屋宜という七十あまりのおじいさんがいた。ある時おじいさんの前で幽霊の話が始まったが、幽霊というものはナイという者もあればアルという者もいた。おじいさんが言わるるはそれは確かにある。もう三十余年以前のことだが辻の石門(いしじょう)で見た人の話を聞いたとて話された顛末(てんまつ)を紹介しよう。

大正時代の辻遊郭の小路=戦前(那覇市歴史博物館提供)

辻の染屋小(そめやぐゎー)小路の染屋小の座敷をかりている出茶のカメという娼婦(じゅり)が馴染み客の宿をたずねて、今の十二時頃帰って石門まで来ると、小豚市場の木陰に女が立っている。今は両方隙間なく家が建っているが、その頃は一方は石垣囲いで交番署側の方は家もなく、岡の上にガジュマルや雑木が立って、昼は小豚市場となり夜になれば森閑として物凄い所であった。

ことにその頃十二時といえば人通りも絶える頃であるから、今時分こんな所に立っているのは誰だろうと近寄ってみると、見知っている大福渡名喜のウシという女だから「姉さんは今時分なんでそこに立っている」と尋ねたら、「誠に済まないがそこの旦那を呼び出しておくれ」という。

「なぜ自分で呼び出さない」とは言うたが「少し都合が悪い」と言うから、寝ているのを起こして旦那に会いたいという人があると取り次いだが、留守だというのでその通りウシに言うと「お前が行ったら奥に逃げたが、留守というなら仕方がない。ご苦労さま。ありがとう」と言う。

挨拶も常と変わらないからカメは別に怪しみもせず「姉さんは何とかして会っておいで」と言うてそのまま家に帰り、明くる朝は朋輩四、五人寄って茶を喫(の)みながら夜前のことを話すと、そのうちの二、三人怪訝な顔をして「それは人違いだろう」と言うから、「人違いでもない、話までした」となお詳しく語ると、皆々身を震わし「それは大変幽霊だ。あの人は死んでから初七日も過ぎた」と聞いて、カメは今更のように驚いて、それから一月ばかりは日が暮れると誰も外に出なかった。

那覇市辻にある辻村(チージムラ)跡=2024年8月14日、那覇市辻

幽霊と言えば戸の隙間から自由自在出入りができるはずだが、まだ修業が行かないせいか、渡地の幽霊といい、この幽霊といい、遠慮深い平凡の幽霊である。(迦那武意)

記者言う。読者諸君の怪談奇聞を募る。実験談でも伝説でもよい。本社怪談奇聞係宛てご投稿を希望す。

「怪談奇聞」(二)=大正元年八月六日付琉球新報三面

怪談の舞台 辻村

那覇の北西部にあった遊郭。娼妓はジュリといいます。琉球王国におけるジュリの起源は不明ですが、15世紀以降、唐や南蛮、大和と交易を行った時代、中国からの冊封使一行や大和からの商人をもてなしたジュリがいたとされます。歴史書の「球陽」には、1672年に「辻」「仲島」に村をつくり、そこに多くのジュリが住むようになったとあります。那覇の「辻」「仲島」「渡地」の3カ所は琉球の花街として明治期まで存続しました。

(次回は8月23日に掲載)