リアリストが見た恐ろしいモノは・・・<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>3


リアリストが見た恐ろしいモノは・・・<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>3
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

旧盆も終わり、暦の上では秋の始まる「立秋」も過ぎましたが、まだまだ暑い日が続いています。背筋がスーッとする怖い話で涼を得ようとするのは今も昔も変わらないようです。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼び掛け集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月間34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社に、毎日2、3通の投書が届くほどの人気コーナーだったようです。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動、旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第3回は、火の玉にまつわる話です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(三)
人の霊魂を見た事実

松田橋の幽霊騒ぎで、世間がよほど幽霊臭くなった際、貴紙が怪談奇聞の募集は夏の日長(ひなが)の読み物として面白い趣向と思う。これは私が中学五年にいた頃である。今は某官邸の腰弁(安月給取り)である。

松田橋跡。松田橋はかつて久茂地川に架けられていた橋で、仲毛(なかもう)と対岸の泉崎を結んだ=2024年8月14日、那覇市泉崎

今こそ卑怯の男になったが、丁度その時分は物理とか化学とかいう学問を生囓りして生意気になり、宇宙のあらゆる不可思議の現象も決して分からぬことはないと信じていたから、もちろん幽霊などのあろうはずはなく、婦人や老人連が真面目で幽霊の話をするときは、吾輩物理化学の見識よりは何とも馬鹿馬鹿しく思うていた。

右のような次第で、幽霊とは一に無学者が迷信的な産物で取るに足らぬと深く信じていて、その時代の勇気は今から考えて寧ろ不思議な程で、雨の夜でも風の夜でも柳の下でも墓場の中でも少しも怖いことはなかった。

ところが私がある夜のこと、友人国吉の宅で遊び、夜の二時頃帰宅しようと外に出たら、一天黒雲(いってんこくうん)に鎖(とざ)されて真の闇夜である。友人は強いて提灯を持って行けと言ったが「ナ二構わぬ」と咫尺(しせき)も弁ぜぬ(視界がきかない)道を探り探りして帰ると、ちょうど門を回れば私の家の辺りに出る六七間前まで来ると、仲里という家の門の向こうの間口一間の店屋の戸がパッと光った。

私は思わず立ち止まった。しかしチットも驚きはしない。「サア、今の光には何か原因がなくてはならぬ」とちょっと立ち止まって考えた。仲里の門の奥に提灯を点けた人があって、便所にでも行こうと通ったときに提灯の光が門の戸の節穴から漏れて、一間店屋の戸にバッと明った訳ではないかと思うた。

なるほどそうに違いないと、私はその事実を確かむべく仲里の門の前に立った。そして戸の節穴から静かに中を覗くと火の気がないばかしか仲里の家族は、はや高いびきをかいて白河夜舟の真っ最中である。

それでも私は中々怖じない。世に決して不思議はないと信じ、今の火の明かりは何か原因がなくてはならぬと、仲里の門を後ろにして光った一間店を見詰めて立っていた。空は依然として暗晦星一つだに見えず、時々嵐の名残のような風が颯々と音をして吹く。夏の夜とはいえ、人足絶えてなく、風のまにまに腕車(くるま)の轢(きし)む音が遠く近く聞こえるのも一段の寂しさを感ずる。

私はこの寂しき夜をしばらく立って、火の不思議を解決させようといろいろ考えながらつくづく店の戸を見詰めていると、心の迷いか次第次第に戸の前面がボンヤリした光を現して見えた。あまりに一箇所ばかり見つめているから目が疲れて神経作用に見えるのだろうと、戸より目を離し、暗い街道を見たり目を閉じて休ませたりなど五、六分時にして、初めて戸に目を向けたら、これはしたり、最前ボンヤリしていた光が今度ははっきり光っているので、さすがの吾輩も原因結果を確かめる勇気なく、夢中に駆けつつ逃げ帰った。

とかくして恐ろしい夜も明け放れ、日曜日で9時頃起床し朝飯を喫していたら、下女が母に言うのを聞いて私は身の毛を立てて驚いた。

それは夕べ不思議の光を見た店の七歳と五歳になる子どもが死んだということであった。七歳の子供が八時頃死んだら、五歳の子供は三十分待ってまた死んだ。七歳の子供は骨炎、五歳の子供は脳膜炎を患っていたということである。私は右の事実を聞いて初めて母に昨夜の光を話したら、母は大いに驚き魂(マブヤー)を込めるとかいろんなことをやられた。そして幽霊を見て帰った時は豚を起こすものだと教えられた。私は今に不思議なことと信じている(不可思議生)

記者言う。読者職員の怪談奇聞を募る本社怪談奇聞係宛て御投稿を希望す。

投書家に告ぐ。怪談奇聞を募集するや、たちまち人気を呼び既に五六種の投書を得しが、中に神風坊君のは幽霊談というより一つの滑稽談である。滑稽談も時にはよろしいが、あまり陳腐なのはかえって読者に飽きを差す。今少し奇抜なヤツを投書してくれたまえ。

「怪談奇聞」(三)=大正元年八月七日付琉球新報三面

怪談の余録 松田橋の幽霊話

大正元年八月四日の琉球新報に「怪光出現の噂 松田橋の群衆雑踏を極む」という記事が掲載されています。

那覇市泉崎大石前(現那覇バスターミナル近辺)の海に面した建物の壁には戸が2つあり、そのうち右の戸から丸い火の玉が出たり入ったりしたり、大きな火の玉が数十の小さな火の玉を従えて戸の中から整列して出てくるかと思えば、入り乱れて消えてしまう。偶然目撃した家族は驚いて、翌日近所の人も一緒に見ていると、怪しい火の玉が前夜と全く同じように出てきた。これは大変だと建物の持ち主や付近の人に注意を促した。三日目の夜もみんなで観察したら確かに火の玉が現れた。それが大評判になり世間の物好きが火の玉を見ようと、松田橋や仲毛海岸に集まり、午後八時から九時十時までは雑踏を極める有様だった。記者が見に行った日は休日で、評判以上に人が集まり、巡査がやってきて整理するほどだった。その日は結局火の玉は出なかったが、見た人の話によると、まんざら嘘の噂ではなかった。(抄訳)

(次回は8月27日に掲載)