葬式までしたはずなのに・・・?<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>4


葬式までしたはずなのに・・・?<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>4
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

8月もそろそろ終わりますが、暑い日が続いています。暦の上では「処暑」、暑さが収まるとされる頃ですが、沖縄ではまだまだ秋の声は遠いようです。そのような暑い日には、背筋がスーッと涼しくなる怪談はいかがでしょうか。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼びかけ集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社には毎日2、3通の投書が届くほど人気を博していたようです。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動や旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第4回は琉球王府時代の上級役人「親雲上」(ペーチン)が関わる話です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(四)
山口親雲上娼妓の亡霊

私伯父にあたる今年六十九歳の老人が、昨夜私の病床を訪われし時、話はツイ松田橋の怪光談より貴紙の怪談奇聞に移り、伯父もたくさんの幽霊談をなされしが、その中に最も不思議なのを紹介しよう。

那覇区字東町は故人となられし山口親雲上(ぺーちん)と、字西の伊波親雲上、宇久田親雲上は共に竹馬の友人であられたが、山口親雲上が病気にかかって寝ていた時、突然その山口親雲上の娼妓某が病死したのである。ところが伊波、宇久田の両人は山口親雲上の病気を深く案じて、その娼妓の死を秘して葬式かれこれのこと、山口親雲上に代わり伊波、宇久田両人が取り図った。そして日を経て山口親雲上いよいよ快方に赴き、娼妓が死んで三週間経つ頃すっかり全快した。

那覇の東町の中心部、大門通りと東町大通りの交差点。左側に山形屋がある=1930年代(那覇市歴史博物館)

そこで一日、伊波、宇久田の両人は全快祝いに招かれて山口親雲上の家に赴き、よもやまの話の末、かの馴染み娼妓のことに及ぶと、今は隠すべきにあらずと伊波、宇久田両人、山口親雲上に向かい、「実は今まで秘して告げざるが貴君の病気中なりし故なり。かの馴染み娼妓こと今より二十日前、病死せり。葬式かれこれのことも我ら両人にて取り計らいたれば安心さるべし」と告げしに、山口親雲上は少しも驚かず伊波、宇久田の両人に向かい「君ら冗談にも程があるよ。今宵は私の病気全快の祝いの座に不吉なことは面白からず」と言えば、両人は目を丸くして「決して冗談ではない」と弁解するも山口親雲上これを信ぜず、かつ言うには「私は確かに四、五日前、門前より通るのを見た」。

娼妓はそのとき私の容態を聞き、「全快の上は遊びにおいで」と挨拶をしたから、私は「しからば一緒に行こう」と言いしに、彼が言うには「御病気いまだ全快とは見受けられず。五、六日にして十分回復の後、おいで」と言って別れた。決して嘘ではないーと山口親雲上の言葉、また少しも嘘のようでないので伊波、宇久田両人は変に思って聞き惚れていた。

それから三人は共に連れ立って娼妓屋に行くことになり、石門の角、今の巡査派出所の前まで来ると、不思議なことに死んだという娼妓が提灯を点けて立っていた。伊波、宇久田両人は互いに顔見合わせて驚き、これは一体どうしたとか、身の毛を立て連れらるるがまま娼妓についていくと、少しも違わずその娼妓の住んでいた某貸座敷である。二人はますます不思議に思い、自分で自分の身をつねってみたりドキドキ躍る胸を静めて考えてみたりしたが分からない。やがてお茶を出し漬け物等まで出したが、娼妓はいつの間にか引っ込んで座敷に顔を出さんようになった。

現在の那覇市東町。左側の建物の場所に山形屋があった=14日、那覇市東町

伊波、宇久田両人はそのままジットしていられぬから山口親雲上に向かい、「イヤ今夜のことは実に不思議なり。世には亡霊というのがある。今夜のことあるいは亡霊の仕業ではないか」と言ったので、山口親雲上も不思議な節ありと。とにかくアンマーに面会しようということなり、アンマー座敷に行くと、今しもアンマーは白い位牌に線香を上げていた所であった。アンマーはもちろん家族のものらも三人がいつ来たのやら知らず、右の話をするとますます不思議に思って、それから右三人も線香を上げて帰ったということである。(字泊病床の人)

次号予告 親子二人の死霊に頼まれし事実談。投稿歓迎 本社怪談奇聞宛ての事。

「怪談奇聞」(四)=大正元年八月八日付琉球新報三面

怪談の余録 親雲上

琉球王府時代に士族に与えられていた称号で、ペーチン、ペークミーと読みます。黄冠を着用していました。従七品~正三品の地頭職(総地頭、脇地頭)の地位にあり、里之子(サトゥヌシ)や筑登之(チクドゥン)から親雲上へ昇進しました。上級士族の親方家(総地頭家)のモノは親方(ウェーカタ)へと昇進することもできました。親雲上という称号は、古代の「大やくもい」が転訛したものとされ、これにウヤ(親)クム(雲)ウイ(上)と当てたようです。1524年、琉球王国では6色の冠(ハチマキ)によって等級が制定され、位階は基本的に年齢に沿って上がっていきますが、親雲上以上への昇進は、家柄や功績によりました。

(次回は8月30日に掲載)