沖縄本島に台風13号が接近しており、徐々に風が強くなっています。昔は台風で外出もままならない夜には怪談を楽しんだと聞きます。
明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼びかけ集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社には毎日2、3通の投書が届くほどの人気ぶりでした。
1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動や旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルでレトロな怪談を紹介します。
連載第9回目は父親の亡霊を見てしまった幼い子どもの話です。
文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。文字が読み取れない部分は「◎」としています。
怪談奇聞(九)
父の亡霊を見て泣く
これは八重山郡において今に残れる実話であります。八重山庁書記・宮良用著の祖父が廃藩前、頭(かしら)宮良親雲上(ぺーちん)となりて出覇(那覇に行くこと)したことがある。今では出覇といえば少しの雑作もなくやってこられるが、当時は沖縄本島を王国と称していて、頭などの出覇を上国と言い、中々の騒ぎであった。例えば頭が上国というと與人(ゆんちゅ)、目差(みざし)、筆者(ひっしゃ)、傘持(かさもち)と役々が付随して頭位にまで仕上げれば、よほど威張っていたものだ。
ちょっと余談にわたりたるが、さて宮良親雲上は◎度上国を命ぜられ付随の役々を連れて出覇し、時の王に首尾良く拝謁を終わりて帰島のこととなった。今こそ汽船もあったがその時は帆船で航海したもので、安着の報知が来ない間、家族は滅多に笑ってもいられないという。実に旅は命を賭しての離れ業(はなれわざ)で当時の重大事件であった。
しかして宮良親雲上が帰島の海上は風波穏やかに無事を語りつつ行きしが、ちょうど船が宮古沖の名高き八重干瀬に差し掛かるや、にわかに風波荒れて船は脆くも破壊され、乗客は一同木片にすがりて悲鳴を上げし、我謝を除く他はことごとく助かり、我謝は不幸にして海底の藻屑となり終わりぬ。
我謝は随員の一人で屋号カーゲーの屋といって家には母と妻及び男女の子三人いたが、今のように電報というのもないから家族らは元より我謝の溺死を知るに由なき次第であった。
ところがある日のこと、我謝の家では三人の兄弟円座してお膳を食べていると次男の保久利(ほくり)という(当時四歳)頑是ない子供が、突然飯椀を投げ目を丸くして霊前を指差し「アレお父さんお父さん。お父さんが濡れている」と叫びながら泣き出した。すると傍にいた我謝の母や妻は大いに驚き、直ちに霊前に線香を焚いて海上安全を祈願し、そして清めといって真塩をもって不吉を叫んだ子供の口を思う存分洗い飛ばした。
それからその年は暮れ、明くる年になり、宮良親雲上一行は漁船に助けられ無事帰島したが、随員中我謝一人は見えない。初めて家族らも溺死したことが分かり、その溺死した時間が子供が霊前を指差して叫んだのと同じであったという。
右の事実は明治八年の出来ごとであるが八重山島では今でもガーゲーの屋の保久利といえば父の霊を見た話しは有名である(確聞生)
投書歓迎 本社怪談奇聞係宛のこと。
怪談の余録 上国
近世資料で見られる用語で、琉球から薩摩に行くことをいう場合と、宮古・八重山などから首里に行く場合の二つの意味があります。政治的に下の立場の者が、上の立場の者へ出向く、という意味です。怪談の上国は、八重山の宮良間切(まぎり)の最高職・「頭職(かしらしょく)」の宮良親雲上(ぺーちん)が首里の琉球国王に会いに行ったときの話となります。
(次回は9月17日に掲載)