社会

1週間燃え続けた那覇の街 別れた友人は生きているのか、死んでいるのか…

かつて自宅があったという現在の国道58号旭橋交差点に立つ喜納政保さん。「何もかも変わってしまい浦島太郎状態だ」と語る=3日午後、那覇市

 「空襲から1週間たっても焼け残ったたるの中から煙が出続けていた」。喜納政保(まさやす)さん(88)=那覇市松山=は75年前に見た光景を今も覚えている。

 県立第二中学校の1年生だった喜納さんは、旭橋近くにあった自宅で「10・10空襲」に遭った。当時住んでいた自宅住所は「那覇市東町5丁目2番地」。軽便鉄道の那覇駅のすぐ近くにあった。

 那覇駅は北は嘉手納、南は糸満など各地で収穫されるサトウキビから精製された砂糖の集積地となっていた。喜納さんは毎朝、駅から那覇港に向かう荷馬車の列を見送るのが日課だった。わんぱく盛りだった喜納さん。戦時体制下で、空腹をまぎらわすために荷馬車にこっそり乗り込み、たるから砂糖を盗み食いしたこともあった。しかし、空襲はそんなささやかな日常を一瞬で暗転させた。

 「父親が食品の卸をする会社をやっていて、自宅も兼ねた事務所にはモズクなどの海産物を入れたたるがたくさんあった。でも、空襲でそれもほとんどが焼け、家も灰になった」

 その日、喜納さんは同級生と小禄村(現・那覇市小禄)にあった飛行場での「軍事作業」に向かうため集まる予定だった。午前7時、迎えに来た友人を自宅に招き入れようとした時、頭上の機影に気付いた。「最初は演習かと思ったが、それにしては地上からの距離が近い。あわてて屋根に駆け上がった」

 屋根からは首里の方角から飛んできた複数の機体が那覇港に向かって急降下してくるのが目に入った。機体には星条旗のマーク。ヘルメットとサングラス姿のパイロットがこちらを見下ろすのがはっきり見えた。

 「空襲だと気付いたのはその時だった。その場にいた友人には『帰った方がいい』と伝えて、私たち家族も逃げることにした」。隣家の雑穀店の倉庫に逃げ込むやいなや、米軍機の爆撃が始まった。暗い倉庫内に響くごう音が爆撃のすさまじさを物語っていた。

 ここにいては危ない―。午前11時30分。いったん爆撃の音がやんだのを機に喜納さん一家は、近隣住民の避難場所になっていた泉崎の防空壕を目指した。午後5時。空襲が終わり、丘の上にあった壕を出て目に飛び込んできたのは、業火に包まれるわが家だった。

 「辺り一面、火の海だった。那覇の町は1週間燃え続けた」。住み慣れた町を後にした一家は親類を頼り、3日かけて本部町まで歩いた。そして家族そろって那覇に戻った時には、3年半の月日がたっていた。

 空襲の朝、一緒だった友人とはその後も会えていない。「生きているのか死んでいるのかさえ分からない」。喜納さんは苦しそうに言葉を絞り出した。
 (安里洋輔)