焦げた釜、家跡形もなく 響くサイレンに住民パニック 那覇市泊の瀨名波起廣さん〈10・10空襲 私の体験〉


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那覇市泊で空襲に遭った瀬名波起廣さん=5日、宜野湾市大謝名

 読者から寄せられた「10・10空襲」の体験談は、いずれも不意打ちの空襲に驚き、家を失った人は中北部に逃れ、飢えに苦しんだ様子をつづっています。

 瀬名波起廣さん(84)=宜野湾市=は那覇市泊の兼久(現在の那覇市前島1~3丁目)で10・10空襲に遭いました。当時、泊国民学校の3年生でした。朝7時半ごろ、自宅で朝食を食べている時、周囲が騒がしくなりました。箸を置き、家の外に出ました。

 《皆、空を見上げていたので、私たちもつられて見上げてみた。それは今まで見たことのない、ギンギラギンと光って編隊を組んでいるたくさんの飛行機だった。皆、口々に友軍(日本軍)の飛行機が演習をしているんだと言った。私もそう思った。大変頼もしいと思い、拍手をする人々もいた。》

 登校するのも忘れ、上空の飛行機に見とれていました。すると飛行機が急降下したかと思ったら那覇港や飛行場の周辺から爆発音や轟音(ごうおん)が聞こえてきました。

 《はじめは、本格的な演習だなあと、誰もがそう思ったに違いない。そこへサイレンが鳴り響き、同時に防衛団員がメガホンを持って「敵機襲来」「敵機襲来」と何度も叫んだ。先樋川(サチヒジャー)の高台から友軍の発射音が聞こえた。》

 住民はパニックに陥りました。午後の空襲で近隣の集落も被害に遭い、瀬名波さんの家族は浦添に逃れました。夜になり2人の兄たちが自宅の様子を確認するため泊に戻りました。夜中、兄は焼け焦げた羽釜の底を持って戻ってきました。

 《家は跡形もなく、それだけだったと。暗闇の中、母の表情は覚えていない。》

 翌日、家族は知人を頼って宜野湾の嘉数に向かいます。その後、今帰仁に移動し、米軍に捕らわれます。気丈な母が子どもたちを支えました。瀬名波さんは今も母への感謝を忘れません。