沖縄戦の女子学徒たちの戦前はこんなに楽しかった 空襲で奪われた穏やかな日々


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
10・10空襲までの青春の日々を生き生きと語る(左から)宮平義子さん、武村豊さん。右端は聞き手の北上田源さん=10日、那覇市のアルテ崎山

 「75年忌 十・十空襲を風化させない市民の集い」(同実行員会主催)が10日夜、那覇市のアルテ崎山で開催された。県立第二高等女学校(二高女)の生徒だった武村豊さん(90)、宮平義子さん(90)が空襲で那覇の街が焼失するまでの平和な日々を生き生きと語った。

 武村さんは当時4年生。三重城近くに住んでいた。「船が出入りして大変にぎやかだった。みんな那覇港でテープを投げて送り出すと、走って三重城で2度お別れをした」。学校帰りに通る西本町に「トラヤ」というまんじゅう屋があった。「ひもじい時に匂いが漂ってきて何とも言えなかった」

 西本町に住む宮平さん宅の近くには「平和館」という映画館があった。「(小学生の頃は)隣に無声映画の弁士が住んでいて、かわいがってもらった。『あっかんべーをしたら映画を見せてあげるよ』と言われてただで見せてもらった。大変平和な時代」

 宮平さんは病気のため、武村さんより2年遅れて二高女に進学した。同校は音楽が盛んだったが、宮平さんはピアノが苦手。「テストで間違って、横目で先生を見たら居眠りしていた。良かったぁと思った」と語り、場を和ませた。

 穏やかな日々を破壊したのが10・10空襲。がじゃんびらで砲台構築をしていた武村さんは家へ戻り、波の上の墓に逃げた。自宅にいた宮平さんは家族と上泉町の親戚宅へ逃げた。宮平さんは「空襲前日は高射砲台造りをしていた。友達が『空襲なんて怖くない』と歌い始めると合唱になった。その生徒が10・10空襲で亡くなったと知り、ショックだった」と振り返った。

 実行委の霜鳥美也子代表(60)は、那覇大綱挽が平和への祈りを込めて10月10日に復活したことから大綱挽の際に合掌することを提案した。「ギネス(ブック)級の祭りならギネス級の祈りができる」と訴えた。