育成、継承へ決意 芸能一筋 ひたむきに 宮城能鳳さん文化功労者


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 「『バカ』が付くくらい組踊、琉球舞踊が好きだったのだろう」。29日、県内初の文化功労者に選ばれた「組踊立方」人間国宝の宮城能鳳さん(81)=与那原町=は、初代宮城能造氏に弟子入りした当時を振り返り、感慨深げな表情を浮かべた。

稽古場でインタビューに答える宮城能鳳さん=与那原町

 1961年に能造氏に師事した。勤めていた琉球政府を辞めて芸能一筋に生きてきた。月謝や衣装、道具を買うために音楽喫茶などでアルバイトをする日々。青年の熱意は能造氏にも伝わった。70年に名取「宮城能鳳」を許された。名は自ら考えた。「幾多の困難にも打ち勝つ気持ちを持ち、芸能界で生きていく」との決意を「鳳」の一字に込めた。この年に、宮城流宮城能造舞踊研究所西原支部を師範代として任される。

 自身も多くの舞台を控えながら生徒を指導し、支部立ち上げ1年足らずで発表会を開いた。無理を重ねた結果、体は限界に近く、幕が下りると、そのまま病院に運ばれたという。その後も精力的に活動を続け、今も信条とする「これよりわれを生かす道なし」の言葉通り、ひたむきに芸の道を歩んできた。

 能鳳さんは「後に先生に『こんなひ弱い青年が、芸能界の荒波に乗っていけるのかと思ったが、見かけによらず芯がしっかりし、間違いなかった』とおっしゃっていただいた」と振り返り涙をにじませた。

1982年に旧琉球新報ホールで開いた「宮城能鳳第1回独演会」を終え、初代宮城能造師(右)と舞台に立つ宮城能鳳さん

 文化功労者に選ばれたことは「組踊300周年記念の節目の年に当たり、身の引き締まる思いだ」と語る。「組踊は(琉球処分と沖縄戦の)2度の危機があったが、先師先達(せんだつ)が強靱(きょうじん)な精神力で守り抜き、今日に至る沖縄の宝だ。私自身の技芸の修練はもちろん、若手の育成にもっと尽力し、正しく継承することが使命だと考える。実演家は手を携えて心一つに全国民、世界に組踊の魅力や素晴らしさを紹介していくことが責務だ」と力を込めた。