私たちは立ち上がる 首里城焼失 特別評論 小那覇安剛社会部長


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 首里城はどこから見ても美しかった。御庭(うなー)の中央から見る正殿の威風堂々たる姿にいつも圧倒された。首里の大通りから龍潭(りゅうたん)越しに眺める正殿や北殿には往時の古都の趣を感じさせた。その首里城が焼けた。貴重な収蔵文化財も失われたとみられる。1992年の復元から27年。県民は深い悲しみとともに、この事実を受け止めている。

 首里城は過去に4回焼失した。沖縄戦で焼けたのは1945年4月である。沖縄に配備された32軍は、沖縄戦直前の44年12月から首里城の地下に司令部壕の構築を始めた。国宝だった首里城の真下の陣地構築は暴挙であった。米軍の標的となり、焼失するのは避けられなかった。

 正殿の背後に造られた「留魂壕」を陣地とした鉄血勤皇師範隊の学徒は首里城が焼け落ちるのを見ている。その中の一人は私たちの取材に「伝統が焼ける―。何とも言えない気持ちだった」と証言した。

 那覇市文化財調査審議会委員で、首里城復元期成会の副会長として首里城の復元に尽くした故真栄平房敬さんも首里城が焼けるのを目撃した。著書「首里城物語」で敗戦直後の惨状に触れ、「かつて深い樹木の緑で包まれていた歴史の町は、一面の『白い廃墟(はいきょ)』に変わりはてていた。もちろん首里城も徹底的に破壊され、白い岩肌をむき出した無残な姿と化していた」と記した。

 真栄平さんの記述を裏付ける米軍の記録写真が残っている。「白い廃墟」の前に県民は立ち尽くし、言葉を失ったであろう。

 県民はここから立ち上がった。荒れ果てた土地に「カバヤー」「キカクヤー」と呼ばれた粗末な簡易住宅を建てた。畑を耕し、産業を興して、沖縄再建への不断の歩みを続けたのである。

 同時に、県民は戦火で失われた沖縄文化の復興に力を注いだ。戦争で傷ついた文化財の収集・展示、伝統芸能や工芸技術の再興に先人たちがたゆまぬ努力を重ねてきた。首里においては復帰前に守礼門や園比屋武御嶽石門が復元された。復帰後、歓会門、久慶門などの復元が進み、92年の正殿の復元に至った。

 真栄平さんは書いている。「首里城の復元される時代が、己れの生きているうちに到来しようとは、夢想だにできなかった。それほどまでに、戦火の傷跡は深かったのである」と。廃墟を見た者の実感である。

 県民の英知の結集によって首里城は復元した。それは沖縄復興の象徴であった。歴史的建造物の復元にとどまらない。琉球王国の歴史、今日まで伝承されてきた有形無形の伝統文化の象徴であり、戦争を拒み平和を求める「沖縄のこころ」の象徴でもあった。

 その首里城が焼失した。焼け跡を見るのはつらい。多くの県民は強い喪失感を抱いていよう。しかし、廃墟から立ち上がり、復興に挑み続けた県民の自信と誇りが失われたわけではない。

 再建には多大な時間を要するはずだが、あきらめるわけにはいかない。今一度、沖縄の英知を結集する時である。私たちは立ち上がる。声を掛け合い、手を携え、首里城再建に向けて力強く歩んでいこう。